薄氷の脱出
ポートガードの夜はフォートレスよりも湿っていた。
港湾区画の空気には潮と鉄錆が混じり、管区の標準灯が等間隔に路面を照らしている。リオンは私服の上に防寒外套を羽織って胸元に手を当てた。内側のポケットにはセーラの手紙がある。紙の角が肋骨の下に当たる感触を確かめてから足を進めた。
03時17分。
手紙に記された哨戒スケジュールの空白は03時40分から04時05分までの25分間だった。第7哨戒塔と第8哨戒塔の交代が重なり、管区外縁部の東側に監視の穴が生じる。その隙間が25分。
倉庫街の裏路地を抜けると建物の隙間から防壁が見えた。哨戒塔のサーチライトが白い光の筋で路面を舐めている。一定の周期で。その周期の隙間をリオンは目で測った。
通信端末が短く2回振動した。アイリスだった。
「北東の通用門を使いなさい。30秒後にカメラの死角が生まれる」
リオンは走った。
外套の裾が膝を打つ。私服の靴底は軍靴ほど地面を噛まず、濡れた石畳で一度滑りかけた。体を低くして倉庫の影から影へと移り、通用門の前で足を止めた。
門扉は閉じており、認証パネルの赤い光が暗闇に浮かんでいる。
通信端末がもう一度振動した。
「右から3番目のカメラが今、東に振れた。12秒」
リオンは認証パネルに手を伸ばした。アイリスが事前に渡してくれた一時コードである8桁の数字を入力する。指が震えなかったのは訓練の賜物だった。
パネルの光が赤から緑に変わる。
低い音を立てて開いた門扉の隙間は人一人分だけだった。体を横にして滑り込み、扉が閉まるのを背中で聞いた。
格納庫は港湾区画の東端にあった。
第三機装師団が使用する複合格納施設だ。鉄殻8機を収容できる規模の建屋で天井は15mの高さがある。夜間の照明は最低限に抑えられ、格納庫の奥に並ぶ鉄殻のシルエットが暗がりにぼんやりと浮かんでいた。
整備用のキャットウォークを渡る足音が鉄の床板に響いた。リオンの足音ではない。
エマ・コーリンが格納庫の通路に立っていた。
整備班の作業着は袖口に油の染みがあり、右手に小さなケースを持っている。暗い金髪を後ろで束ねた彼女は眠そうな目でリオンを見た。だがその目の奥には眠気とは別のものがあった。
「遅い」
エマの声は低く端的だった。整備報告をする時と同じ口調だ。
「すみません」
「謝る暇があるなら急ぎなさい。ロックは解除した」
エマは通路の奥を顎で示した。
格納庫の最奥。専用区画のシャッターが半分だけ上がっている。その隙間から白銀の装甲が見えた。
ポラリス。
全高9.6m。白銀を基調に関節部と装甲の稜線へ深い紺色が入る。バイザー型のメインカメラが横に長く伸び、正面から見ると目を細めた射手のような表情をしていた。薄い装甲に楔形の胴体。背部の主スラスター2基と腰部のサブスラスター4基を備えた、エマが手を入れ続けた機体だった。
リオンはポラリスを見上げた。
この機体に初めて乗った日のことを覚えている。コックピットに座った瞬間に操縦桿の感触が手に吸いつき、ペダルの反応は自分の足の力加減にぴたりと合っていた。
「これ」
エマが右手のケースを差し出した。掌に収まるほどの金属ケースを開けると、中にデータチップが1枚入っていた。
「整備マニュアル、部品の互換性リスト、各関節のトルク設定値、動力系のチューニングパラメータ。全部入れた」
エマの声には感情が乗っていなかった。これも整備報告と同じだ。
「エマさん」
「余計なことは言わなくていい」
エマはリオンの言葉を遮った。
「私はこの組織に残る。整備班には私の手が必要な機体がまだある。だけど、あの機体はあなたと一緒に行くべきだ」
エマの目がポラリスに向いた。
「ポラリスの足首の関節、左が右より0.02度だけ内側に傾いてる。癖じゃなくて、あなたの踏み込みに合わせた調整。他の技匠には分からないから、チップのデータを見せなさい。それでも分からない奴には触らせるな」
リオンはデータチップを受け取った。
「ありがとうございます」
「礼はいい。壊すな」
エマは踵を返し、一度も振り返ることなく格納庫の通路を戻っていった。作業着の背中が暗がりに溶けて消える。
コックピットに乗り込んでハッチを閉じる。暗闇の中、計器類のバックライトが順番に灯った。まず燃料残量を見る。
燃料残量は87%。推進剤は満タンだ。エマの仕業だと思った。
リオンは操縦桿を握った。
手袋は外している。素手の指が操縦桿の表面に触れると冷たい金属の感触があったが、体温で少しずつ温まっていく。
軍服は着ていない。通用門をくぐる前に宿舎のハンガーへ残してきた。皺一つなく襟を整え、ボタンの一つ一つに管区の紋章が刻まれた灰青色の制服をリオンは置いてきた。
起動シークエンスを開始する。
動力機関が低い振動を伝える。コックピットの床から足裏に伝わる微かな震えは、ポラリスの心臓が動き始めた音だった。計器の数値が安定域に入るまで38秒。エマのチューニングのおかげで標準の起動時間より12秒短い。
03時38分。あと2分。
格納庫のシャッターを全開にした。電動モーターの音が反響し、外の冷気が流れ込んでくる。港湾の潮の匂いと灰域の空気が混じった冷たい風だった。
03時40分。
哨戒交代の空白が始まった。
ポラリスの脚部に力を入れ、格納庫から一歩を踏み出した。足裏のセンサーが地面の状態を伝える。コンクリート、凍結なし。ペダルを踏み込んで歩行から走行に移った。
港湾区画の外壁を回り込んで管区東端の低地帯に入った。外縁部まではまだ3kmある。全速で走れば足音が人を呼んでしまうため、歩幅を落とした。
冴覚を研ぎ澄ませる。
周囲の空気が変わった。機械の巡回パターンの中に人間の意識がいくつか灯っている。それぞれの注意がどこを向いているか、輪郭だけがぼんやりと伝わってきた。
右前方700mに注意の塊があった。第7哨戒塔だ。だが今この塔は交代作業の最中であり、新しい哨戒班が装備を確認して引き継ぎの報告を行っている。外を見ている目はない。
ポラリスの歩幅を抑え、建物の陰を縫うように進む。サブスラスターの出力を最低限に絞り、脚部の関節音を吸収するために膝を深く曲げた歩行姿勢を取った。コックピットの振動は増すが速度は落ちない。
外縁部の防壁が見えた。
高さ12mの鉄筋コンクリート壁の手前で、ポーンが2体壁際を往復している。灰白色の二脚型ドールだ。頭部のセンサーが赤く点滅し、設定された範囲を機械的に巡回している。冴覚には何も映らない。プログラムで動く機械には意識がないからだ。
セーラの手紙に書かれた情報を思い出す。東側区画のポーンは03時42分から03時47分の間、巡回経路が防壁の北端に集中する。南端が5分間だけ無防備になる。
03時43分。ポーン2体が北に向かって歩き始めた。セーラの情報は正確だった。
防壁の南端に向けてポラリスを走らせる。壁際に到達して主スラスターに点火した。噴射音が夜の空気を裂く。一瞬の出来事だった。壁を越えるのに必要な最低限の推力だけを使い、防壁の上端を飛び越えた。着地の衝撃がコックピットを揺らし、計器のバックライトが一瞬明滅する。
防壁の外側。管区の外縁部。
そこには灰色の大地が広がっていた。夜明け前の暗闇の中で灰域の荒野がぼんやりとした輪郭を見せている。枯れた草が風に揺れ、遠くに崩れた旧世界の建造物の残骸がシルエットとして浮かんでいた。
背後から警報は鳴らない。
まだ気づかれていない。
推進剤を節約しながら低空を飛んだ。
地表から高度20m。ポラリスの主スラスターを間欠噴射に切り替え、慣性で滑るように移動する。燃料消費を抑えるために動力機関の出力を60%に落とし、コックピットの暖房も切ったため外套の下で体が冷えていく。
計器を確認した。燃料残量は81%。外気温は氷点下3度。暖房を切った機内では息が白かった。
高度を15mに下げる。地表の起伏がコックピットの正面モニターに映る。枯れた草原、ひび割れた旧道路、傾いた送電塔の骨組み。旧世界の痕跡が灰色の大地に散らばっている。
通信傍受を警戒してポラリスの通信系統は全て切っていた。完全な無線封鎖であり、アイリスにもセーラにも誰にも連絡できない。
東の空が僅かに白み始めた。夜明けが近い。灰域の空は管区の空と違って雲が低く垂れ込めている。太陽の光が直接差すことは少なく、白い空が地平線から広がってくるだけだった。
リオンはペダルを踏み、高度をさらに10mまで下げた。地面が近い。ポラリスの脚部が枯れ草の先端を掠める高さだった。
管区外縁部のラインを越えた。
計器のナビゲーション表示が、管区領域を示す境界線の外側にポラリスの位置を示した。灰域、セルヴィスの法が届かない場所だ。
リオンは振り返らなかった。
後方モニターにはポートガードの防壁がゆっくりと小さくなっていく映像が映っている。哨戒塔のサーチライトが遠い光の点になり、やがて地平線の下に沈んだ。
外套の下で体が冷えていく。それでも操縦桿から手は離さなかった。
リオンは操縦桿を握り直す。
東の空が白んでいく。夜明けの光はまだ弱く、灰色の空と灰色の大地の境界が曖昧だった。その曖昧な境界線の上を、ポラリスは低く静かに飛んでいた。




