母の筆跡
夜が更けていた。
士官宿舎の窓から見える空は灰色の雲に覆われて星一つ見えない。廊下を歩く巡回兵の靴音が規則的に近づき、リオンの部屋の前を通り過ぎてまた遠ざかっていった。靴音が完全に消えるまで17秒、巡回の間隔は30分。次に足音が戻ってくるのは2時28分だ。壁掛け時計の針が深夜2時を指している。
リオンは机の前に座っていた。
作業灯の光が机の上だけを照らしており、部屋の四隅は暗いままだった。6畳の宿舎に私物はほとんどなく、壁に掛かっているのは管区の標準カレンダーだけだ。ベッドのシーツは皺なく整えられている。軍人の習慣が体に染みついているからだ。明日からはもうこのベッドで眠ることはない。
引き出しを開け、中身を一つずつ確認する。身分証、管区発行の通行許可証、緊急用の糧食パック3つ、止血帯、折り畳みナイフ。灰域に出た後で補給を受けられる保証はないため、最低限のものだけを鞄に詰めた。水筒は満タンにしてある。管区の浄水は灰域では手に入らないからだ。
アイリスから受け取った通信端末の暗号化キーには、軍の回線を経由せずに連絡を取るための周波数が記録されている。これは鞄ではなく外套の内ポケットに入れた。肌に近い場所にある、決して失くすわけにはいかないものだ。
ベッドの上に広げた地図を見る。フォートレスからポートガードまでの経路が2本、赤い線で引かれている。1本は幹線道路。管区の物資輸送に使われる主要路で路面は整備されているが、検問が3か所ある。もう1本は補給路として使われている旧国道だ。舗装は荒れているが検問はない。代わりに夜間は哨戒部隊が不定期に巡回する。どちらを選んでも見つかれば脱走兵として拘束される。
リオンは地図の上に指を這わせた。フォートレスからポートガードまで直線距離で約350km、旧国道経由なら400kmを超えるため徒歩では論外だ。ポラリスが必要になる。格納庫から持ち出す手筈はアイリスが整えると言っていた。
机の引き出しをもう一度開けた時、奥に何かが挟まっていることに気づいた。
封筒だった。薄い灰色の紙で、管区の標準的な事務用封筒ではない。表面に僅かな凹凸がある手漉きの紙だ。セルヴィスでは紙は配給制で、軍用と民生用に厳格に分けられている。手漉きの紙はハーヴェストリッジの工房で少量だけ作られる贅沢品であり、一般市民が手に入れるのは容易ではない。
封筒の表には何も書かれておらず、裏にも宛名はない。だがこの紙を持っている人間をリオンは一人しか知らなかった。
セーラ・アスフォード。母だ。
封を切ると中に便箋が1枚入っていた。同じ手漉きの紙に母の筆跡で文字が並んでいる。几帳面で癖のない字。元通信士官の手は暗号を書き写す訓練で鍛えられている。母の字はいつも均一で感情を読み取らせなかった。
リオンへ。
あなたが正しいかどうかは分からない。
でも、あなたが自分の目で見て決めたことなら、母は止めません。
あの子は私に似た、とお父さんに言ったことがあります。止められない人間だと。お父さんは何も答えませんでした。
体に気をつけなさい。食べなさい。眠れる時に眠りなさい。
セーラ
短い手紙だった。便箋1枚の半分にも満たない。
リオンは文字を2度読んだが、3度目は視界が滲んで読めなかった。指の腹で便箋の表面を撫でると手漉きの紙の繊維が肌に触れる。母がこの紙を選んだ理由をリオンは知っていた。軍の事務用紙には管理番号が印字されていて追跡されるが、手漉きの紙には番号がないのだ。
「行くな」とはどこにも書いていなかった。「帰ってこい」とも。
リオンは便箋の縁を指で押さえた。母の字はいつものように均一だった。
「食べなさい。眠れる時に眠りなさい」。母の声が聞こえた気がした。幼い頃、灰域掃討の視察から帰った夜に泣き止まないリオンの頭を撫でながらセーラが繰り返した言葉と同じだった。あの夜も母は「大丈夫」とは言わなかった。
便箋を裏返した。
指が止まった。
裏面には母の字で数列が並んでいた。本文とは違う極めて小さな文字で、通信士官の訓練を受けた者にしか書けない精密さだった。
PG-N7 02:00-04:00 無配備
PG-E3 01:30-03:30 巡回間隔45分
認証 フォックストロット-7-ナイナー
有効期限 本日より72時間
ポートガードの夜間哨戒スケジュールだ。
北の第7ゲート、2時から4時。その2時間だけ誰も立たない。
リオンは息を止めて、それから吐いた。母は逃げ道をひとつ開けていた。
認証コードは通行時の本人確認に使う暗号応答だ。哨戒部隊に見つかった場合でも正しい認証コードを返せば味方と認識され、少なくともその場での拘束は免れる。
これは軍の機密情報だった。
哨戒スケジュールは毎日更新されて参謀本部の承認を経て各部隊に配信されるため、一般の士官には翌日分しか開示されない。72時間先までのスケジュールを知っているのは上級参謀以上の権限を持つ人間だけだ。
つまりケネス・アスフォードの机の上にあった情報だ。
リオンの指が便箋の縁を握った。
父の机にしか載らない数字であり、母がそれを写したということだ。退役した手が夜のあいだに夫の書斎で動いたのだ。
リオンは便箋の縁を握りしめた。
発覚すれば軍法会議では済まない。機密漏洩は重罪であり、参謀長の妻という立場がむしろ罪を重くする。
夫の机で、同じ均一な字で書いた。
その夜、母はどんな顔をしていたのだろうか。
リオンは便箋を丁寧に折り、外套の胸ポケットに入れた。母の字が胸に当たる位置だった。
立ち上がり、ハンガーにかけた軍服を見る。灰青色の制服と皺のないボタン。襟章には少尉の階級章が作業灯の光を反射している。
手を伸ばして襟章に触れると金属の冷たさが指先に伝わった。16歳でグレイウォーターの士官学校に入り、19歳で任官してから3年間この階級章を胸に付けてきた。父と同じ軍服であり、父と同じ管区に仕える証だ。
階級章を外すと留め金が小さな音を立てた。手のひらに載せた金属の塊は軽かった。
階級章を机の上に置く。作業灯の光が表面を照らして「少尉」の刻印が浮かび上がった。リオンはそれを見つめてから目を逸らした。
軍服をハンガーに戻す。もう着ることはない灰青色の布地がハンガーの上で垂れ下がっている。主を失くした軍服はただの布だった。
鞄の中から灰色の上着と濃紺のズボンを出した。管区の民間人が着るような目立たない私服だ。アイリスが用意してくれたもので、どちらも着古した質感がある。新品は怪しまれるからだ。袖を通すと、鏡に映った自分は少尉ではなくただの若い女だった。紺色の目が自分を見返している。父と同じ色で、母と同じ形の目だ。
通信端末を手に取り、暗号化キーを入力して周波数を合わせる。軍の傍受網を避けるための、アイリスが指定した帯域だった。
3回の呼び出し音が鳴り、4回目の途中で回線が繋がった。
「明日、動く」
リオンの声は低かった。
沈黙があった。通信回線の微かなノイズだけが耳に触れる。2秒、3秒と過ぎるが、アイリスが何を考えているのかリオンには分からなかった。
「了解」
アイリスの声だけが返り、それ以上の言葉はないまま回線が切れた。
リオンは通信端末を外套のポケットにしまった。胸ポケットの便箋に指先が触れる。母の手紙。母が賭けたもの。
作業灯を消すと、窓から差し込む管区の灯火だけが暗闇の部屋を照らした。フォートレスの街路灯が等間隔に並び、その向こうに哨戒塔の赤い点滅が見える。遠くから哨兵交代の号令が聞こえた。今夜も街は正確に動いている。30分ごとの巡回と3時間ごとの交代、全てが計画通りに。
リオンは窓辺に立ち、その光景を目に焼きつけた。
生まれ育った管区だ。石畳の道も灰青色の建物も、コーヒーの匂いがする家も全てここにある。リオンが「家」と呼んできたものの全てが。
明日その全てを捨てる。
机の上に置いた階級章が窓から差す光を受けて鈍く光った。リオンはそれに背を向けた。




