父の秩序
アスフォード邸の門扉はセルヴィス管区の他の上級士官の住居と同様、飾り気のない鋼鉄製だった。
塗装は管区標準色の灰青色だ。擦り傷は無数にあるのに錆は一片もない。父の家だと、擦り傷の方を先に思った。門の左右に延びる低い石壁の上面は水平に切り揃えられ、雑草すら生えていなかった。
リオンは門扉の前で一度だけ足を止め、軍服の襟元を正した。
父の前に出る時は必ずそうする癖だった。正されるべきは襟ではなく姿勢だと知っていても指が先に動いてしまう。
門を開けても蝶番は音を立てなかった。
玄関までの石畳は幼い頃に数えた12歩のままで、今でも変わらない。その隙間に砂一粒落ちていないのはセーラが毎朝掃いているからだ。木製の玄関扉には管区で貴重な天然木材が使われている。ケネスは貰い物だと言っていたが、誰から貰ったのかは聞いたことがない。
ドアノブに手をかけた瞬間、隙間からコーヒーの匂いが漏れてきた。
セーラが淹れたものだ。管区の配給品ではなくクレスタ経由で流れてくる灰域産の豆を使っている。苦味が強く酸味はほとんどない、リオンにとっての「家」の匂いだった。
扉を開けた。
狭い廊下の白い壁には何も飾られていない。参謀長の邸宅にしては質素だが隅々まで清潔で、床板の一枚一枚が磨き上げられていた。この家にはいつも特有の静けさがある。
書斎の扉は開いており、ケネスが机に向かっていた。
壁に貼られた管区全域の地図には赤と青の印が複数打たれている。部隊の配置図だろう。久しぶりに入った父の仕事場は、机の上に書類が几帳面に積まれペンが1本置かれているだけで、それ以外は何もなかった。
「入っても構いませんか」
リオンの声は平坦だった。父に対する時の訓練された声だ。
「構わない。座れ」
書類から顔を上げないケネスは52歳。白髪交じりの短髪で軍服ではなく家庭用の簡素な上着を着ているが、背筋は真っ直ぐに伸び、書斎の椅子に座っていても直立している時と同じ姿勢を保っていた。
机の正面の椅子に腰を下ろしたリオンは、鞄から書類の束を取り出して卓上に置いた。
管理番号が印字された表紙は、アイリスが命懸けで持ち出した資料だ。
ケネスの目が書類に移る。表紙の番号を見た瞬間、彼はペンを置いた。
「どこで手に入れた」
「それは答えられません」
ケネスの視線が初めてリオンに向く。リオンと同じ紺色の目だ。
「お前には閲覧権限がない。この文書に触れること自体が軍規違反だ」
「読みました」
リオンは父の目を見返した。
「灰域の冴覚を持つ子供を『保護』の名目で回収し、鋳脈処置を施す計画です。対象候補のリストまで作成されている。最年少は8歳」
声は震えなかった。ここまでの道で何度も頭の中で繰り返してきた言葉だ。
「これが、あなたの言う秩序ですか」
ケネスは3秒ほど沈黙し、壁の地図に目をやってからリオンに視線を戻した。何を考えているのかは読めない。
「お前は何を知りたい」
「あなたがこの計画を承認したのかどうか」
「承認した」
即答だった。言い訳も留保もない。
リオンの指が膝の上で握り締められる。分かっていたことだが、父の口から直接聞くのは別だった。
「なぜ」
「冴覚を持つ子供が灰域に放置されれば、いずれ灰域勢力の戦力になる。訓練も受けず、制御も学ばず、鉄殻に乗る。未熟な操手が残殻や鹵獲汎殻で暴れれば、巻き込まれるのは管区の外縁に住む民間人だ」
ケネスの声は低く均質で、報告書を読み上げるような口調だった。
「先に手を打つのが防衛だ。管区に迎え入れ、適切な訓練と鋳脈処置を施し、統制された戦力として運用する。放置するよりも、子供たち自身にとっても生存率は高い」
「鋳脈の代償はご存じのはずです。コルヴァスの鋳脈者が何年で戦闘不能になるか。聴覚、視覚、四肢の感覚を失っていく過程を」
「知っている」
ケネスの声に揺らぎはない。
「それでも、管区の民間人が灰域からの攻撃で死ぬことと天秤にかける。お前も士官教育を受けた。戦略とは選択だ。どちらかを選ぶのではなく、どちらの損害を許容するかを決めることだ」
リオンは口を開きかけてやめた。父の言葉のどこを掴んでも指の間からすり抜けていき、崩せない。
だが。
「8歳の子供に鋳脈を施すことが『保護』だとは思えません」
「感情で戦略は語れない、リオン」
父が名前を呼んだ。この家で父が自分を名前で呼ぶのは本気で話している時だけで、普段は「お前」か「少尉」だ。
「私にも感情はある。8歳の子供に鋳脈を施すことが愉快だと思う人間はこの管区にはいない。だが、その子供が10年後に残殻で管区の街を焼く可能性がある。その時、焼かれるのは別の8歳の子供だ」
リオンは答えられなかった。
父が間違っているならまだ戦えた。
言葉を探す舌先はひどく乾いて動かず、喉の奥がかすかに痛む。膝を押し込む指先だけが白く強張っていた。
「分かりたくない」
声が出た。用意していた言葉ではなかった。
「あなたの論理が正しいとしても、私はそれを分かりたくない」
ケネスは机の上のペンを見つめた。
「お前もいずれ分かる。私もお前の年齢の頃は同じことを考えていた」
「同じだとは思いません」
「そうかもしれない」
ケネスはそれ以上何も言わず、書類の束を手に取ると中身を確認もせずに引き出しへしまった。この計画は父にとって未知の文書ではなかった。
リオンは椅子から立ち上がり、鞄を肩にかけ直す。説得できるとは来る前から思っていなかった。
書斎を出ると廊下にセーラが立っていた。
エプロン姿の彼女の手にはコーヒーカップが2つ載ったトレイがある。運んでくる途中で足を止めたのだろう。どれだけ聞いていたのかは分からない。セーラの目は赤くなっていたが泣いてはいなかった。
リオンがセーラの横を通り過ぎるとコーヒーの匂いが鼻をかすめた。
「気をつけて」
背中にセーラの声がかかった。短い言葉で行き先も何に気をつけるのかも言わなかったが、母の声は震えていた。
リオンは振り返らなかった。振り返ればこの家に留まりたくなる。コーヒーの匂いと清潔な廊下と、母の声がある場所に。
「ありがとうございます」
それだけ言って玄関を出た。
自室は管区の士官宿舎の一角にあった。
6畳ほどの狭い部屋にはベッドと机と棚があるだけで私物はほとんどない。壁に何も飾っていないのは父の書斎と同じだった。
軍服を脱いでハンガーにかけた。部屋の隅にぶら下がる皺一つなく整えられた灰青色の制服を、リオンはしばらく見つめた。
この服を着ている限り、署名一つで子供が運ばれていくのを皺一つない袖のまま待っている。自分が。
父は間違っていない。それがいちばん苦しかった。
軍服のボタンが作業灯の光を反射する。
この服を脱ぐ日が近い。




