遠い砲声
フォートレスの朝はいつも同じ音で始まる。
巡回の汎殻が街路を踏む低い振動。兵舎の換気装置が吐き出す単調な唸り。鉄製の窓格子の向こうから漏れる哨兵交代の号令。全てが正確で規則的で隙がなかった。
リオンは独房に近い単身宿舎の窓際に立ち、軍服の襟を正した。
鏡に映る自分の顔はこの街と同じだ。整って静かで何も漏らさない。だが鏡の奥にある目だけが別のものを映している。ストーンクロスの雪と壁の上から見た灰域の白い大地、そしてカイの横顔。全部ここには存在しないものだった。
ドアをノックする音が響いた。短く等間隔な3回の響きは軍人の叩き方だった。
「アスフォード少尉。ロウリー中尉がお呼びです。第4会議室に出頭してください」
伝令の事務的な声に、リオンは「了解」とだけ答えた。
第4会議室は本部棟の3階にあった。壁に管区の地図が貼られ、長机の上に作戦資料が整然と並んでいる。窓から差す冬の光が床に長方形の影を落としていた。
ベック・ロウリーは机の前に立っていた。
黒い短髪を几帳面に整え、軍服のボタンを一つ一つ規定通りに留めた男だ。面長で精悍な顔は無表情だったが目だけが鋭く光っている。リオンが扉を閉めるとベックは視線を上げた。
「座れ」
リオンは着席したがベックは立ったままだった。その高低差が意図的なものであるとリオンは理解していた。
「灰域戦線から帰還して11日が経つ。その間、お前に対して3件の報告が上がっている」
ベックは机の上の書類を指で叩いた。
「第1に、帰還後の行動報告書に記載のない外出が2件。第2に、情報部への非公式な照会が1件。第3に、管区通信回線の私的使用。言い訳があるなら聞く」
「ありません」
「正直でいいが、正直さで軍規は免除されない」
ベックはリオンの目を見た。
「俺はお前の操縦技術を買っている。冴覚の判断力も認めている。だが軍人としての信頼は、技術とは別の場所にある。お前がストーンクロスで何を見て何を考えたか、俺は聞かない。聞く義務もない。ただ一つだけ言う」
ベックの声が低くなった。
「次の独断行動は軍法会議だ。アスフォードの名前でも庇えない。分かっているな」
「分かっています」
「分かっているなら行動で示せ。以上だ」
リオンが立ち上がり敬礼するとベックは軽く頷いた。彼の目には怒りよりも疲弊があった。手のかかる部下を抱えた上官の疲弊だ。それを見てリオンはわずかに胸を痛めた。ベックは悪人ではない。命令に従って部下を守り、与えられた枠の中で正しくあろうとする人間だ。
だがその枠の外で起きていることをベックは見ようとしない。あるいは見る権限を持たない。
本部棟を出ると冬の冷気が頬を刺した。
フォートレスの街路は清掃が行き届いていた。旧世界の建造物の基礎を利用した低層の建築群が並び、路面に凍結防止の砕石が撒かれている。パトロールの汎殻2機が街路の交差点を通過していった。脚部の関節音がしばらく響き、やがて建物の角を曲がって消える。
リオンは本部棟から南へ3区画歩き、旧大聖堂跡に着いた。焦土紀以前はこの場所に尖塔を持つ石造りの聖堂が建っていたという。今は基礎部分だけが残って上部構造は取り壊され、軍の資材倉庫に転用されている。高い天井のアーチだけが当時の面影を残し、その下に鉄殻の補修部品や弾薬の木箱が積み上げられていた。
倉庫の奥に人影があった。
アイリス・トレントは補修部品の棚の陰に立っていた。暗い栗色の髪を後ろでまとめ、眼鏡の奥の茶色い目でリオンを捉える。軍服の上に防寒用の外套を羽織り、左手首に巻いた通信端末の画面は消灯していた。
「少し待ちました」
アイリスの声は穏やかだったがどこか張り詰めたものがあった。
「ベックに呼ばれました。予定より遅れて申し訳ありません」
「ロウリー中尉に。どのような話を」
「警告です。次は軍法会議だと」
アイリスは眼鏡の奥で目を細めた。
「予想通りですね。あなたの行動は目立ちすぎている」
「自覚はあります」
「自覚だけでは足りません。これを」
アイリスは外套の内側から封筒を取り出した。白い封筒に赤い管理番号の印字。「SDF-IP-4227-C」。C分類――参謀本部以外が本来目にすることのない等級だった。
「灰域浄化計画の補足資料として参謀本部で承認された文書です。正式名称は『管区外縁部における冴覚素養者の保護及び管理に関する実施要綱』」
リオンは手袋越しに封筒を受け取った。三つ折りのただの紙束だった。
封を開けた。
中身は3枚の書類だった。1枚目は計画の概要で2枚目は実施手順、3枚目は添付資料だ。
リオンは1枚目を読んだ。
灰域浄化作戦の進行に伴い管区外縁部において冴覚の素養を持つ未成年者の存在が複数確認されている。これらの対象者は適切な保護と管理の下で管区内の施設へ移送し、鋳脈適性検査及び訓練課程への編入を行うものとする。
リオンの指が止まった。
2枚目の実施手順に目を移す。位置特定、確保、移送、適性検査。そして最後に――鋳脈処置の実施。
3枚目は添付資料だ。
リオンの呼吸が止まった。
表だった。縦に番号が振られて横に項目が並んでいる。「対象候補ID」「推定年齢」「冴覚発現の確認方法」「所在地域」「確保優先度」。
番号は14まであった。
推定年齢の列に目が走る。
14歳。12歳。13歳。11歳。15歳。10歳。12歳。9歳。14歳。11歳。13歳。10歳。12歳。
8歳。
最後の行だ。対象候補014。推定年齢8歳。冴覚発現の確認方法は偵察部隊による近距離観測。所在地域は灰域南部。確保優先度はA。
リオンの手が震えた。
書類を握る指先に力が入り紙が僅かに歪む。アイリスがそれを見ていたが何も言わなかった。
8歳。
リオンが管区外縁部で灰域掃討作戦の余波を目撃したのも8歳の時だった。父に連れられて視察した管区の境界で、燃える集落と逃げ惑う民間人を見たのだ。あの日父は目を覆おうとしたが、リオンは振り払って見続けた。
それと同じ年齢の子供に鋳脈を施すという。
リーヴ・シェイドが回収されたのも子供の頃だった。灰域の焼け跡で物乞いをしていた孤児を「保護」の名目で連れ去り、軍事訓練を受けさせて鋳脈を施したのだ。リーヴの左手は既に感覚を失い始め、味覚も大部分が消え去った。まだ20歳にして体が壊れ始めている。
リーヴと同じ道を次の世代に歩ませようとしている。
「この資料は」
リオンの声はかすれていた。
「参謀本部で先月承認されたものです。ケネス・アスフォード参謀長の署名があります」
父の名前だった。
リオンは1秒だけ目を閉じた。それ以上閉じていたら何かが崩れると分かっていたからだ。
「アイリスさん」
「はい」
「なぜこれを私に」
アイリスは眼鏡を指先で押し上げた。疲れたような翳りがその目の奥にある。
「私は情報を渡すだけです。使い方は、あなたが決めなさい」
以前と同じ言葉だった。あの時はそれで納得できたが、今は――喉の奥で何かがつかえる。
リオンは書類を封筒に戻し、外套の内側に収めた。
旧大聖堂の高いアーチの下で二人の息が白く立ち昇った。弾薬の木箱の列が影を作り、天井の隙間から差す冬の光が砕けた石畳の上に細い線を引いている。
遠くで砲声が聞こえた。
管区外縁部の訓練場から響く汎殻の射撃演習の音が、フォートレスの三重防壁を越えて微かに届く。
リオンはその音を聞きながら、胸の内側で何かが凍りついていくのを感じた。書類の端を支える指先からゆっくりと体温が抜け落ちていく。
8歳。
あの列に並んだ数字が目の裏から消えなかった。




