焚き火の夜
焚き火の炎が廃墟の壁に揺れる影を作っていた。
リオン・アスフォードは火から少し離れた位置に座っていた。住民たちが焚き火を囲み、干し肉を串に刺して炙りながら遺灰酒の瓶を回している。芋から蒸留した透明な酒だ。リオンも一口含んだが、喉の奥が焼けるように熱く、思わず咳き込みそうになるのを奥歯を噛んで堪えた。隣の老人は同じ酒を水のように呷っている。リオンはそっと瓶を隣へ回した。
夜の集落は昼とは違う顔を見せていた。
焚き火の光が顔を照らし出し、影を深くする。昼間の労働の疲れが酒と火の温もりで溶けていくようだ。あちこちで笑い声が上がり、子供たちが焚き火の周りを走り回っていた。誰もリオンを軍人として扱わなかった。よそ者として遠巻きにする者もいない。ただ火の輪の端に座る一人としてそこにいさせてくれていた。それがかえって居心地が悪かった。
マーサ・ウィンターが子供たちを膝元に集めた。
「今夜は、血鉄のレオーネの話をしようかね」
子供たちの目が光った。
「昔、大崩落が始まったばかりの頃、一人の鉄殻乗りがいた。名前はレオーネ。誰のために戦うでもなく、灰域を一人で歩いていた。レオーネの鉄殻は血のように赤い装甲を纏っていて、行く先々で壊れた集落を直し、傷ついた人間を助けた。報酬は求めなかった。ただ、行く。直す。去る。そういう男だった」
マーサの語りは穏やかだった。抑揚は控えめだが声に力があり、焚き火の音がその間を埋めている。膝元の小さな子が一人、舟を漕ぎ始めた。年上の子がその肩を小突いて起こす。
「ある日、レオーネは泥の中で倒れていた女を見つけた。名前はエレナ。戦火で村を焼かれ、泥の中を這って生き延びた。レオーネはエレナを担いで歩き、水を探し、食料を分けた。エレナはレオーネに問うた。『あなたは何のために歩いているの』。レオーネは答えた。『分からない。ただ、止まると死ぬ気がする』」
リオンはいつのまにか身を乗り出していた。子供たちの背中越しにマーサの声を追っている。文字に残らない物語というものをリオンは聞いたことがなかった。明日には誰かの口を通って、また少し形を変えていく話を。
「レオーネとエレナは一緒に歩いた。二人で集落を回り、壊れたものを直し、傷ついた人を助けた。やがて人々はレオーネを『血鉄のレオーネ』と、エレナを『泥の聖女エレナ』と呼ぶようになった。二人は伝説になった。だけど――」
マーサの声が低くなった。
「二人が最後にどうなったかは、誰も知らない。ある日、灰域から姿を消した。残されたのは赤い鉄殻の残骸だけ。レオーネの体は見つからなかった。エレナも」
子供たちが静まり返り、焚き火が爆ぜる音だけが残った。
「だから灰域の人間は、赤い鉄殻を見ると手を合わせる。レオーネがまだどこかを歩いていると信じて」
* * *
タリア・ホリーがリオンの隣に座り、灰域パンの欠片を火に翳して焼きながら屈託なく話し始めた。
「ここは何もない。でも、何もないから自分で作るしかない。それが楽しいんだ」
タリアは火に翳したパンを裏返しながら喋っている。手を動かしている時のほうが言葉が滑らかだった。
「通信機、知ってるでしょ。あたし、廃材から部品を集めて自分で組んだの。最初は全然動かなくて、半年かかった。でも動いた時はね、泣いた。本当に泣いた。自分の声が、隣の集落まで届いたんだよ」
リオンは軍の宿舎を思い出していた。あそこにこんな夜はなかった。
泣くほど嬉しかったことが自分にあっただろうか。士官学校で首席の名が読み上げられた朝も自分は何も感じず、ただ次の課題のことだけを考えていた。
「あんた、いい人ね。軍人って聞いてたから怖い人かと思った」
タリアが笑った。そばかすが焚き火の光に照らされている。
「私は……」
参謀長の娘だと言いかけてリオンは口を噤んだ。ここではその名は錘にも盾にもならない。
「……ただの少尉よ」
自分でも驚くほど声が小さかった。タリアは「ふうん」と気のない返事をして、また干し肉を火に翳す。それきり肩書きの話は出なかった。
焚き火の向こう側にカイがいた。
壁に背を預け、遺灰酒の瓶を膝の上に置いているが飲んではいない。ゲオルグの隣に座り何かを聞いている。
ふと目が合った。
だがすぐに逸れた。カイが先に視線を外してゲオルグの方を向いたので、リオンも手元のカップに目を落とした。揺れる水面に焚き火の赤が映っている。火を挟んだ向こうから、カイがゲオルグに低く答える声だけが切れ切れに届いた。
タリアは二人の間の空気に気づいた顔をしたが何も言わず、代わりに遺灰酒の瓶を持ち上げてリオンのカップに注いだ。
「もう一杯、どう。灰域の酒は体が温まるよ」
ゲオルグが酒を片手にリオンに声をかけた。
「客人、遠慮なく食え。ここの飯は粗末だが、分け合うのだけは得意だ」
リオンはドライベッド・シチューを口に運んだ。乾燥豆と干し肉と根菜の煮込みだ。塩が強いが温かく、軍用糧食よりずっと美味い。その温度が空っぽの胃の底へゆっくりと落ちていった。
ゲオルグはそれ以上リオンに構わなかった。すぐに隣の住民との話に戻り、井戸の修繕の段取りを低い声で詰めている。歓迎しすぎず、突き放しもしない。リオンは膝の上のカップを両手で包み直した。
* * *
焚き火が消えかけた頃、タリアがリオンの袖を引いた。
「ねえ、ちょっと来て。見せたいものがあるの」
焚き火から離れると夜の闇が一気に濃くなった。足元の瓦礫をタリアが慣れた足取りで避けていく。リオンは右腕の副木をかばいながらその背中を追った。
タリアの通信小屋は廃墟の一角を改装した小さな部屋だった。中に入ると炭と油の匂いがする。壁には旧世界の回路図が炭で書き写してあり、棚には分解した通信機の部品が種類別に並んでいる。中央の作業台にはタリアが組み上げた通信機があった。
旧式の部品を寄せ集めた自作の受信機だ。タリアは慣れた手つきでダイヤルをいくつか回し、指先で微妙な角度を探る。ノイズが波のように大きくなったり小さくなったりする中、やがてその奥から人の声が浮かび上がってきた。
「……焦土の声、って呼ばれてる。灰域の非公式ラジオ。誰が発信してるか分かんないんだけど、灰域の情報を流してるの」
ノイズの向こうから声が聞こえる。低い男の声だ。感情を排し、事実だけを述べる口調だった。
「――セルヴィスが灰域に動いている。南方に部隊展開の兆候あり。複数の鉄殻反応を確認。方位は南南東。推定距離――」
南南東。
リオンの指が勝手にカップの縁をなぞった。ラストヘイムはその方位の先にある。頭の中で灰域の地図が像を結んだ。展開規模、進軍速度、想定される到達日。士官学校で叩き込まれた計算が勝手に動き出す。部隊がここに向かっている。それも一個小隊や二個小隊の話ではない。
タリアの顔を見た。表情が固い。
「……あたしたちのこと、もう知られてるのかな」
タリアの声は小さかった。
リオンは答えなかった。答える代わりに、左手がありもしない軍服の襟を探していた。




