ポラリスと|残殻《ざんかく》
ポラリスの左脚がようやく動いた。
カイ・セヴァルは軸受けに最後の油を差し、関節を手で回した。引っかかりはない。昨日まで歪んでいたフレームが正位置に収まっている。指の腹に伝わる滑らかな回転。仕上がった機体を回す瞬間は何度味わっても飽きなかった。たとえ自分の機体でなくてもそれは変わらない。これで自走はできる。戦闘に耐えるかは別の話だが、少なくとも地に伏したままの鉄塊ではなくなった。
女は外装パネルを左手で押さえ、カイがボルトを締めるのを見ていた。右腕の副木はまだ取れないが、二人で一台を仕上げる手順はもう言葉がいらないところまで来ていた。最後のパネルが嵌まると女が小さく息を吐いた。
「……これで、動くわね」
「自走だけならな。装甲の亀裂は、まだ塞いでない」
カイは工具を布で拭いた。ポラリスの装甲が夕方の光を鈍く照り返している。寄せ集めの自分の残殻とはやはり別の生き物のようだったが、今日はその差を考えずに済んだ。手が動いているあいだは考え事は遠くにあった。
女が副木の腕をかばいながらゆっくりと立ち上がる。整備を手伝うあいだ彼女は一度も弱音を吐かず、痛むはずの右腕をぎりぎりまで使おうとするのを、カイは止めなかった。動けるようになりたい人間を止める理由はない。
女が集落のほうへ歩いていく。その背を見送ってから、カイはもう一度ポラリスの関節に手を当てた。冷えた金属の感触。明日装甲の亀裂に取りかかれば戦える機体に近づくが、誰と戦うのかはまだ考えていなかった。
* * *
日が落ちた。
集落のあちこちに夕餉の煙が上がっている。カイは工具を片づけ、宿舎に向かいかけて足を止めた。
ガルド・ヴェッセンの作業場から音が漏れていた。受信機の周波数を合わせる低いノイズの唸り。その奥に規則的な信号が混じっている。短く、長く、また短く。暗号化された通信の断片だった。
ガルドはたまに夜に受信機を回す。カラスの止まり木の商隊の連絡を拾ったり、遠くの集落の様子を探ったりするためだ。だが今夜の音はいつもと違った。ノイズの質が硬く、信号の間隔が機械が刻んだように正確だった。灰域の人間が使う通信機からこういう音はしない。
カイは足を止めたまましばらくその音を聞いていた。立ち去ればよかった。技匠の作業を覗くのは礼儀に反すると分かっていたが、ノイズの奥のあの正確な信号が耳に引っかかって離れず、足が動かなかった。
扉は半分開いていた。カイは息を殺して覗き込んだ。
ガルドが受信機の前に座り、紙にペンを走らせている。方位の数字。信号の間隔。赤葉の煙草を咥え、辛い煙を吐きながら聞こえてくる断片を一つずつ書き取っていた。
その手元の工具箱が開いていた。
箱の底に見慣れない部品があった。指の先ほどの銀色の精密な金属片だ。表面に細い溝が刻まれ、端子のようなものが整然と並んでいる。布に包まれていた跡があり、他の工具とは別の場所に丁寧にしまわれていた。灰域の廃材からはああいうものは出てこない。カイはそれが何かを知らなかったし、ガルドがどこで手に入れたのかも聞いたことはない。
ペンが止まった。ガルドが書き取った数字を指でなぞる。距離を測っているようだった。
ガルドの顔が険しくなった。
「鉄鴉か」
呟きが扉の隙間から漏れた。
カイは覗いている自分をガルドに気づかれないよう、息を詰めた。
鉄鴉。その名は灰域まで届いている。セルヴィス防衛機構の特務遊撃隊。鋳脈者の精鋭で組まれた部隊だと、いつだったかカラスの止まり木から流れてきた隊商の男が酒の席で言っていた。あいつらが来た集落は地図から消える、と。男は笑い話のように話していたが、瓶を傾ける手元が乱暴で酒が卓に零れていた。鋳脈が何なのかカイにも正確には分からない。ただその名を口にした男の顔つきだけは今も覚えていた。
ガルドはその名を口にした。聞き間違いや当て推量で口にする男ではない。受信機から拾った信号と紙に書き取った数字だけで、相手を言い当てている。
カイの口の中が乾いていた。
ガルドは受信機の電源を落として立ち上がり、煙草の火を踏み消した。
扉に近づいてくる足音にカイは反応が遅れた。逃げる間もなく扉が開き、目が合った。覗いていたと顔に書いてあるのが自分でも分かった。「いや、これは」と言いかけて続かず、喉の奥で言葉が潰れた。半歩後ずさっていた。
だがガルドは何も言わなかった。覗いていたことを咎める様子もなく、ただ夜空を見上げた。星は見えず、灰色の雲が低く垂れている。
カイもその視線を追った。あの雲の向こうのどこかに鉄鴉がいる。
工具を担いだ手がいつの間にか柄を強く握っていた。
「あの女を、回収しに来る」
ガルドが言った。問いかけではなかった。
「……リオンを」
「セルヴィスは、銘殻を一機、灰域に落としたまま放っておかん。乗り手ごと取り戻すか、乗り手ごと潰すかだ」
「……鉄鴉ってのは、そんなに厄介なのか」
ガルドはすぐには答えず、煙草を深く吸って長い時間をかけて煙を吐いた。
「鋳脈者ってのは、機体の目を、自分の目みたいに使う。装甲のどこを撃たれたか、敵がどっちから来るか、考える前に体で分かるのさ」
「乗ったことが、あるみたいな言い方だな」
言ってしまってからカイは少し後悔した。ガルドの過去を集落の誰も詳しくは知らないし、どこから流れてきたのかも分からない。ただガルドの整備の手つきと工具箱の底のあの部品が、灰域育ちのものでないことだけは薄々感じていた。
ガルドは答えなかった。代わりに暗い茶色の目でカイを一瞬見ただけで、そこからカイは何も読み取れなかった。
カイの頭の片隅に昼間のことが浮かんだ。残殻の修理を見て女が「工夫がある」と言ったことや、二人で一台を仕上げた手順。あの女を回収しに来るというなら、来る相手はたぶん集落も区別しない。
ガルドは工具箱を閉じた。あの銀色の部品が蓋の下に消え、ガルドの指が一度だけその縁を叩いた。
「明日、話がある。お前とゲオルグに」
短い言葉で、返事を待つ様子もなかった。
それだけ言うと、ガルドは作業場の奥に戻って扉を閉めた。
カイは宿舎には戻らずしばらくその場に立っていた。
ポラリスの輪郭が夜の闇に沈んでいく。あの機体が落ちてきた日から何かが動き出していた。それが何なのかはまだ形にならないが、首の後ろのあたりにうっすらと冷たいものが張りついていた。
集落のほうに目を向けた。窓に灯るわずかな明かりや、誰かが鍋をかき混ぜる音。子供を寝かしつける低い歌声。砲撃のあった日からまだ日も浅いのに、住民はもういつもの夜に戻っていた。
遠くで戸を閉める音がした。
カイは工具箱を担ぎ直し、宿舎に向かって歩き出した。首の後ろの冷たさは歩いても消えず、暗い路地に足音だけが響いた。




