リオンの見たもの
集落の共同井戸は朝の光の中で錆びた鉄管を晒していた。
リオン・アスフォードは井戸の縁に腰を下ろし、左手でポンプのハンドルを押し上げた。数回押すと水が噴き出す。冷たく、舌に乗せれば鉄の味がした。顔を洗うと頬の傷が沁みる。額の縫合糸が引きつれ、リオンは一瞬息を止めた。
この数日で体が動くようになっていた。肋骨のひびは鈍痛に変わり、右腕の骨折も固定具のおかげで日常動作に支障はない。クレアの治療は的確だった。医療器具がほとんど揃っていない部屋で、あの丸眼鏡の女性は迷いのない手つきで処置を施していた。
「案内してあげる」
いつの間にかタリア・ホリーが隣にいた。オーバーオールの裾を折り返し、大きすぎるジャケットを肩に引っかけている。左耳には旧式のイヤホンが刺さっていた。
「ここのこと、ちゃんと見てほしいの。あんた、軍人でしょ。灰域がどんなところか、自分の目で見て」
真っ直ぐに言われ、リオンは一瞬言葉を返せなかった。見てどうしろというのか。見たところで自分に何ができるわけでもない。喉の奥でそんな反論が形になりかけて消えた。タリアの目にこちらを責める色はなかった。
「……分かったわ」
リオンは立ち上がった。
* * *
集落を歩いた。
タリアが案内役を買って出たため、リオンは黙ってついていく。足元の地面はアスファルトの残骸と砂が混ざり合い、軍靴の底に砂利が噛む。固定具の右腕をかばって歩くと自然と歩幅が狭くなった。
乾いた風が吹くたびに鉄粉が鼻の奥へ届く。リオンは無意識に呼吸を浅くした。喉の奥がひりつく。
通りを行き交う住民がリオンを見た。すぐに目を逸らす者もいれば、立ち止まってじっと見る者もいる。軍服は着ていないものの、よそ者だということは歩き方一つで伝わるのだろう。視線が背中に刺さる。リオンは背筋を伸ばしたまま視線を正面に固定し、逃げるように足を速めることだけはしなかった。
廃材で組まれた住居が並ぶ通りを抜けると開けた広場に出た。ゲオルグ・ハートが座って住民と話し込んでいる。井戸の水量や、交易路の確認についてだ。白髪を短く刈り上げた大男は声を張らず、相手の目を見て聞いている。右頬の火傷痕は日光の下だと一層はっきりと見えた。大崩落の時に負った傷だとタリアが小声で教えてくれた。
「あのおじいちゃんが、ラストヘイムを作った人の一人。もう一人はマーサさん」
広場の隅ではマーサ・ウィンターの教室が始まっていた。廃墟の一角に板を並べた簡素な部屋で、6人の子供が地面に座っている。マーサが木の棒で壁に文字を書き、子供たちがそれを真似て砂の上へ指で書く。
「昔、この大地には道路というものがあった。どこまでも真っ直ぐに伸びて、人は鉄殻に乗らずに遠くまで行けた」
マーサの穏やかな声に子供たちが目を丸くしている。一人が「みち」と砂に書こうとして形が崩れると、隣の子がくすくす笑った。マーサが棒の先でその子の頭を軽くつつく。
リオンは入り口で立ち止まる。中に入る気になれず、軍靴の音を立てるのも憚られて半歩後ろに引いた。セルヴィスの士官学校には専用の訓練場と最新の教材があったが、ここには板と砂と木の棒しかない。それでも子供たちは一文字書くたびに顔を上げ、マーサの次の言葉を待っていた。
一人の子が書いている手を止め、リオンのほうを振り返った。砂で汚れた指。まだ五つか六つだろう。その子はしばらく不思議そうにリオンを見ると、何の警戒もなくまた砂に向き直った。リオンはその小さな背中を見つめていた。
そこへリック・フォードが教室から飛び出してきた。
黒髪を無造作に伸ばした少年がリオンの前で足を止める。タリアより頭一つ背が低く、声はまだ高い。首から旧式の双眼鏡をぶら下げて目を輝かせていた。
「姉ちゃん、鉄殻に乗れるんだろ。すげえな」
リオンは答えに詰まった。
セルヴィスの士官学校において、鉄殻は「管区防衛の要」だった。戦力であり、資産であり、抑止力。そこに「すごい」という言葉はない。
「……ええ。乗れるわ」
リックは満面の笑みを浮かべると、双眼鏡を目に当てて遠くの廃墟を覗きながら走っていった。一度も足元を見ることなく瓦礫の間を器用に駆けていく。タリアが苦笑した。
「あの子、カイ兄に憧れてるの。鉄殻に乗りたくてしょうがない。でも、鉄殻がどういうものか、まだ分かってない」
タリアは走っていくリックを目で追っていた。
* * *
クレア・アシュバーンの診療所で手当てを受けた。
クレアは無言で包帯を替え、骨折の経過を確認する。薬指と小指が曲がったまま動かない左手で、器用に繃帯を巻いていく。曲がった指がリオンの肌に触れる時だけは驚くほど優しかった。巻かれるたびに固定具が腕に締まる。クレアの指先は冷たかった。
他人に体を預けることには慣れていない。軍では自分の体は自分で管理するものだった。ましてこれが灰域の人間の手だと思うとなおさら落ち着かない。手を引きたい衝動が何度も指先まで走ったが、リオンはその手を動かさなかった。
目を伏せたとき、クレアの首筋に小さな刺青が見えた。数字とアルファベットの組み合わせ。火傷で消そうとした痕があるものの完全には消えていない。
リオンにはそれが読めた。セルヴィスの軍医識別番号だ。自分の同僚にも同じ刺青を入れている軍医がいる。
「あなた……」
「昔の話よ」
クレアの声は静かだった。丸眼鏡の奥の目がリオンを見て、すぐに手元へ戻る。
「今は、この集落の医者。それだけ」
リオンはそれ以上聞かなかった。診療所を出ると外の光が眩しい。クレアの曲がった指の感触がまだ腕に残っていた。
* * *
夕暮れ。
集落の高台に上った。崩れかけた建物の外付けの鉄階段。一段ごとに錆が軋み、足を乗せるたびに靴底から細かい振動が伝わる。左手で手すりを掴み、右腕をかばいながらリオンは一段ずつ上った。途中で一度息を整えるために立ち止まる。肋骨がまだ少し痛んだ。
屋上に出ると風が強かった。髪を結っていたゴムが切れて黒髪が風に広がる。固定具の右腕では押さえられず、リオンは左手で顔にかかる髪を払った。
灰原草の白い穂が荒野の果てまで続いている。秋が近づき、穂が白く変色し始めていた。灰色の大地の上で白い波が揺れる。夕陽が粉塵の中を通り抜け、穂の一つ一つを薄い橙色に染め上げていた。
「きれい……」
思わず声が漏れる。そう呟いた自分にリオンは驚いた。
灰域に美しいものがあるとは思っていなかった。セルヴィスの教育では、ここは「荒廃した土地」「秩序なき無法地帯」としか教えられていない。
だが目の前にはその夕暮れが広がっている。白い穂が風に揺れ、粉塵が光を散らして灰色と橙色の境界が溶けていく。リオンは目を細め、長く息を吐いた。
胸の奥で何かが軋んだ。
ここにあるのは無秩序ではない。資源の乏しい中、人間が人間らしく暮らそうとする必死の秩序だ。
そう思い至り、リオンはすぐにその考えから目を逸らした。認めてしまえば自分がこれまで信じてきたものの足元が崩れる。崩したくなかった。まだ。
風が吹く。灰原草の穂が白く光った。




