ヴィルヘルムの目
ガルド・ヴェッセンは、15年ぶりにグランヴェルトの通信周波数を叩いた。
夜明け前。まだ暗い灰域の廃工場の端に、ガルドは一人で通信機に向かっていた。周波数をグランヴェルトの軍用帯域に合わせ、暗号鍵を打ち込む指が、かじかんでいた。15年前、ここを出るときのままの鍵だ。変えられてりゃ、それまで。
ノイズ。数秒の沈黙。
応答。
「誰だ」
腹の底が、ひやりと冷えた。低くて抑揚のない声。15年前、命令を下すときと寸分変わらない。
ガルドは煙草を咥えたまま答えた。
「久しぶりだな、ヴィルヘルム」
通信の向こうで、一拍の間があった。
「ガルドか」
「暗号鍵を変えてないとは思わなかったな」
「変える理由がなかった。お前がいつか連絡してくると分かっていた」
ガルドは苦笑した。15年、待たれてたわけか。相変わらず、こっちの動きを全部読んでやがる。
指が震えていた。煙草を持つ右手ではなく、通信機のパネルに触れた左手の中指と薬指。火傷の跡があって感覚が鈍いはずの指が、微かに揺れている。懐かしい、という感情ではない。15年前に逃げ出したあの場所が、声になって耳に押し込んでくる感触だ。
「お前の犬どもが灰域を荒らしている。ゲルハルトがアイアンウェルの近くをうろついてるぞ」
「偵察だ。灰域を荒らす意図はない」
「偵察だろうが何だろうが、鉄殻を灰域に入れた時点で脅威だ。鋼城のデータが欲しいなら、灰域に手を出すな」
沈黙。
通信のノイズだけが流れる。3秒。5秒。
「データはいずれ見つかる。お前がいなくても」
ヴィルヘルムの声は揺れなかった。脅しじゃない。本気で俺抜きでも辿り着けると踏んでる。そっちの方が、ずっとこたえた。
「だが俺がいた方が早い。お前もそれは分かっているだろう」
「何が言いたい」
「灰域から手を引け。アイアンウェルに近づくな。それが条件だ」
「条件か。そしてお前は何を差し出す」
「俺の知識だ。データの場所を、俺は知っている。テオが隠した場所を、直接教えることができる」
再び沈黙。
ガルドは時計を見た。通信開始から18秒。30秒が限界だ。
ヴィルヘルムが口を開いた。
「提案がある」
「聞こう」
「灰域への攻勢を一時停止する。ゲルハルトの部隊をアイアンウェルの圏外に退かせる。その代わりに、お前がグランヴェルトに帰還すること。データの場所を直接示すこと。それが条件だ」
ガルドは即座に答えた。
「断る」
「なぜだ」
「俺が戻れば、カイが一人になる。あの子を置いていく気はない」
「テオの息子か」
「ああ」
「お前はまだ、テオの影を追っているのか」
喉の奥が詰まる。煙草の先が、唇の端で揺れた。
「影じゃない。テオに頼まれたんだ。息子を頼むと」
「テオは消えた。7年前に。お前に息子を託して、自分は消えた。テオはいつもそうだった。自分だけが犠牲になれば全てが解決すると信じていた」
ガルドは声を出さなかった。否定する言葉が出てこなかった。ヴィルヘルムの言っていることは、事実に近い。テオは最後、自分を消すことで周囲を守ろうとした。ガルドには止める隙もなかった。それを今、あの冷静な声に淡々と指摘されている。
25秒。
「時間がない。通信を切る」
「ガルド」
「何だ」
「お前が戻らなくても、いずれデータは見つかる。そしていずれ、灰域は統制される。遅いか早いかの違いだ」
「それはお前の都合だ、ヴィルヘルム」
28秒。ガルドは通信を切った。
静寂が戻った。
通信機のランプが消え、夜明け前の暗闇だけが残る。
ガルドは煙草に火をつけた。
手が震えている。吸い込んだ煙が、冬の空気の中で白く広がった。
カイが後ろにいた。
ガルドの背中から2メートルの距離で、黙って通信を聞いていた。
「聞いていたな」
「ああ」
カイは前に出て、ガルドの隣に立った。
二人とも、東の空を見ていた。まだ暗い。だが地平線の端が、僅かに白み始めている。廃工場の壁の向こうで、焚き火の煙が上がっていた。住民が目を覚め始めている。今日もどこかへ移動しなければならない。5日目の撤退が始まる。
「ヴィルヘルムは、時間稼ぎに応じると思うか」
「分からん。だがあいつは、データの在り処も分からねえまま灰域を引っ掻き回すような無駄はしない。いったんは退くだろう」
「一時的か」
「ああ。一時的にしかならない。あの男は諦めない。俺がそうしたように、テオがそうしたように、ヴィルヘルムも自分の信念を曲げない男だ」
カイは黙った。
ガルドの煙草の煙が、朝の冷気の中で漂っている。
「ガルド」
「何だ」
「あの男は悪人じゃないと言った。今の通信を聞いて、少し分かった気がする」
ガルドはカイを見た。このガキは、聞こえていたものを全部飲み込んでいる。テオの話も、俺が断った理由も。
「あの男は自分が正しいと思ってる。灰域をまとめて、鋼城で世界を安定させる。それを本気で信じてる。だから怖い」
「ああ。そうだ」
東の空が、少しずつ明るくなっていく。
灰色の雲の底に、橙色の光が滲んでいる。
「テオのことは」とカイが聞いた。「7年前に消えたって」
「ああ」
「……何があったんだ」
「今は言えない」
カイは何も言わなかった。ガルドの答えを責めなかった。その代わりに少し間を置いて、東の空を見た。
「いつか聞かせてくれ」
「ああ」とガルドは答えた。「いつか」
その約束がいつになるか、ガルドには分からなかった。
カイは通信機に目をやった。
「通信解析で位置を特定されないか」
「30秒以内に切った。半径10キロ程度までしか絞れない。すぐに移動すれば問題ない」
「なら移動しよう」
「ああ」
カイが通信機を袋に入れて肩にかける。そのまま歩き出すかと思ったが、立ち止まった。
「ガルド。さっきの通信で、お前が断った理由」
「何だ」
「俺がいるから、だろう。言わなくてもいい」
「……聞こえてたなら、分かってるだろう」
「ああ」
カイはそれだけ言って、先に歩き出した。礼も言わなかった。それでいい、とガルドは思った。
ガルドは煙草を踏み消した。靴底で火種を潰し、灰を雪に埋める。
通信の余韻が、まだガルドの耳に残っていた。
ヴィルヘルムの声。15年ぶりに聞いた、かつての上司の声。変わっていなかった。あの合理的で、冷静で、どこまでも正しいことを言う声。
ヴィルヘルムは今ごろ、部下に俺の通信を解析させてるだろう。交渉しながら、追跡もする。昔からそうだった。正面と裏の2つを同時に動かす。俺がグランヴェルトにいた頃から変わらないやり方だ。
時間は稼いだ。今はそれだけで、十分だった。
通信機のパネルをしまいながら、ガルドは煙草に火をつけた。いつもなら一服で落ち着く。今日は煙の味がしなかった。ヴィルヘルムの声が、まだ耳の奥に残っている。「テオはいつもそうだった」。ガルドには反論の言葉がなかった。あれは正しい。だから余計に、腹の底がざらついていた。
カイが先に歩き出した。ケストレルの方へ。
ガルドはその背中を見た。
テオと同じ背中だった。少し小さくて、少し細くて。だが同じように真っ直ぐだった。
頼まれたんだテオ。お前の息子を、ここまで連れてきた。あとどれだけ連れて行けるかは、まだ分からない。




