嵐の前
焚き火が爆ぜた。
乾いた木片が割れる音が、夜の灰域に小さく響いて消えた。カイは炎を見つめながら、両手を火に翳した。指先が痺れている。コックピットの中ですら骨まで凍る夜だ。外に出れば、息を吸うたびに鼻の奥が凍りついた。
仮設拠点は、ラストヘイムとアイアンウェルを結ぶ線上の廃墟群の中にあった。旧世界の倉庫らしき建物の壁が3面だけ残っており、崩れた天井の代わりに鉄板を渡して雨と雪を凌いでいる。壁にかけられた灯油ランプが、集まった人間たちの顔を橙色に照らしていた。壁のコンクリートには旧世界の文字が薄く残っている。何かの企業名だったのだろう。今はもう読めない。
バートンが地図を広げた。
旧世界の印刷地図に、灰域の集落や通行路が手書きで書き加えられた、使い込まれた地図。折り目が白く擦り切れ、端がほつれている。15年間、この男が灰域を歩き回った軌跡がこの紙の上にある。バートンの右手が地図の上を滑った。小指のない手。
「リーヴ率いるコルヴァスの本隊が、旧ストーンクロスを発った。進路はこちらに向かっている。到着は早くて明後日の朝」
バートンの声は淡々としていた。ストーンクロスを失った男の声とは思えないほどに。地名をなぞる小指のない手の滑りだけが、隠しきれない焦燥を孕んで速かった。
ボルトが腕を組んだ。筋肉の塊のような腕が、焚き火の光で赤黒く光る。革の袖無しから覗く肩に、古い刀傷が走っている。
「戦力を並べるぞ。こっちは残殻が8機。うち稼働できるのは6機。俺の部隊が3機、リントの分隊が2機、それからカイのケストレル。以上だ」
「向こうは」
「コルヴァスの本隊。リーヴの銘殻に汎殻が6機。フィン・カーターの特別仕様機を含む。それに後続で通常の汎殻部隊がもう8機」
ボルトは自分の言葉に、苦い笑みを浮かべた。
「数で負けてる。質でも負けてる。どうする、バートン」
バートンが地図の一点を指した。仮設拠点の東方、丘陵地帯の入り口にあたる場所だ。等高線が密に並んでいる。起伏が激しい地形。
「ここで受ける。丘陵に入れば、地形が味方になる。平原で正面からぶつかれば全滅だが、起伏と瓦礫を使えば数の差を多少は埋められる。旧世界の高架道路の残骸が東西に走っている。これを防衛線にする」
トワが壁に背を預けたまま口を挟んだ。
「高架っつっても半分崩れてるだろう。遮蔽物としてはいいが、相手が上から来たら丸見えだ」
「だから上は取らせない。リントの分隊が高架の北端を押さえる」
リオンが口を開いた。
「セルヴィスの教本通りなら、コルヴァスは先に遊肢で偵察を行います。リーヴの偵察型遊肢が来た時点で、こちらの配置は割れる」
灰域の男たちの視線がリオンに集まった。軍服を脱いだ今は暗色の戦闘服を着ているが、姿勢も口調も軍人のそれだった。だが誰も口を挟まない。撤退戦で退路を守ったあの残殻の動きを、ここにいる全員が見ている。
「偵察遊肢を潰す手はありますか」
リントが聞いた。赤いスカーフの下で、若い操手の目が真剣に光っている。
「音響センサーの死角になる谷間に伏せて待ち伏せれば、残殻でも偵察遊肢を撃墜できます。飛翔型遊肢の装甲は薄い。ルークを1発当てれば落ちる」
「谷間のどこだ」
「高架道路の南側。崩れたコンクリートが谷状になっている場所がありました。あそこなら音響は反響して発信源を特定できない。遊肢のセンサーでも位置を割りにくい」
リオンの分析は淀みなかった。カイは横目で紺色の横顔を見た。かつて己の血肉となるまで叩き込まれた教本を、今こうして逆に使う。その胸の奥で、どんな刃が擦れ合っているのか。尋ねられるはずもなかった。
トワが煙草に火をつけ、煙を天井に向かって吐いた。
「民間人の避難は終わってるな」
「アイアンウェルに向かった。コンラッドが受け入れている」
バートンが頷く。
「なら、ここにいるのは死んでもいい連中だけだ」
「死んでもいい人間はいない」
バートンが静かに言い返した。トワは煙草を咥えたまま薄く笑い、それ以上は言わなかった。
会議が終わった。戦術は決まった。丘陵地帯の入り口でコルヴァスを受け止める。ボルトの残殻部隊が正面を支え、リントの分隊が高架北端の要所を押さえ、トワが遊撃として側面を脅かす。カイのケストレルはリーヴの銘殻を引きつける。リオンは残殻でリントの分隊を支援し、偵察遊肢の排除を担う。
作戦は決まった。だが、誰も席を立たなかった。こんな防衛線で止まる相手じゃないことは、分厚い沈黙が語っている。カイは爆ぜる火を見た。削って遅らせて——その先は、まだ誰も口にしない。
* * *
焚き火の周りに、酒瓶が回った。
バートンが棚の奥から出してきた蒸留酒だった。灰域で作られる灰原草の蒸留酒は、喉が焼けるほど強い。ボルトが一口飲んで、顔を歪めた。
「生きて帰ったら、もう一杯やろう」
バートンが瓶を傾けながら言った。ボルトは鼻で笑った。
「生きて帰る気しかないぞ、俺は。死ぬつもりで戦場に出る奴は、大体死ぬ」
「経験則か」
「39年生きてきた実感だ」
リントが酒を受け取り、一口飲んで咳き込んだ。トワが「ガキは水でも飲んでろ」と言い、リントが「22ですよ」と言い返す。ボルトが「22は充分にガキだ」と笑い、リントが不満そうに口を尖らせた。
ガルドは焚き火から少し離れた場所で、ケストレルの最終整備を続けていた。ランプの光の中で、工具が鈍く光る。油と金属粉の匂いが、酒と焚き火の匂いに混じった。関節部のグリスを冬季用に入れ替え、ボルトの一つ一つを締め直している。その手つきは丁寧で、迷いがなかった。何千回と繰り返してきた動作だ。
カイは酒瓶を受け取ったが、飲まなかった。隣に座るリオンの横顔を見た。
リオンは炎を見つめていた。紺色の目に橙が映って、揺れている。まばたきもしない。明日のことを、もう何度もこの目で見ている顔だった。
「眠れるか」
カイが聞いた。
「眠れない。あなたは」
「同じだ」
二人とも、それ以上は何も言わなかった。言葉にする必要がなかった。明日の朝には戦場に立つ。それだけのことだ。
ガルドが工具を置いて、焚き火に近づいた。作業着の袖を捲り上げた腕に、古い火傷の痕がランプの光で浮き出ている。
「ケストレルは万全だ。関節のグリスは全部入れ替えた。冬の灰域で凍結しないやつに。左腕の装甲板は前の戦闘で歪みが出てたから、裏側から叩いて直した。完璧じゃないが、1戦は保つ」
「ありがとう」
「礼はいらん。生きて帰ってこい。修理するのは俺だからな」
ガルドはそう言って、酒瓶を取り上げた。一口飲んで、カイに差し出した。カイは今度は受け取って、一口だけ飲んだ。灰原草の蒸留酒が喉を灼き、胃の底で小さな火を点けた。
* * *
夜明けが這い寄ってくる。
東の空の鈍色が薄くひび割れ、わずかな白がにじんでいた。雪はとうに止んでいる。風もない。鴉の声ひとつしない静寂のなかで、カイは自分の肺が繰り返す律動だけを聞いていた。
カイはケストレルのコックピットに座った。ハッチを閉め、計器の灯りが薄く点る。機関温度計は青の底。外気温度はマイナス14度。燃料残量93パーセント。弾薬はファルケの短銃身型が満弾、ウェスペの三連装が満弾、ドナーが2発。鍛翼刀は右腰部の懸架にロックされている。
操縦桿を握った。テオの手に合わせて作られた握りだ。カイには少し大きい。それでも、もう掌が形を覚えている。
床が震えた。
最初は地虫が這うような微かさで。それがすぐ、規則正しい拍に変わる。鉄殻の足音だ。1機じゃない。隊列を組んだ重みが、座席の底からカイの背骨を突き上げてくる。
通信にリントの声が入った。
「東方、距離15キロ。センサーに複数の熱源。残殻のものじゃない。汎殻の反応です。7機以上」
ボルトの声が重なった。
「全機起動しろ。配置につけ」
残殻のエンジンが次々と唸りを上げる音が、仮設拠点に響いた。冬の灰域では、エンジンの始動に通常の3倍の時間がかかる。凍りついた関節が軋み、排気管から黒い煙が噴き出す。
カイは操縦桿を握り直した。
リーヴが来る。




