グランヴェルトの影
撤退の行軍が5日目に入った時、新たな問題が浮上した。
野営地は灰域西端の廃工場の跡地だった。屋根が落ちて壁だけが残った区画に、住民800人がテントを張り、焚き火をくべて体を寄せ合っている。食料は5日ぶんに満たない。足を引きずる老人が増えた。子供は泣く力も残っていない。カイが整備場にしている隅の区画には、弾を撃ち尽くした残殻が並んでいる。腕のない機体、脚を引きずる機体。部品が足りない。直せる限界がとっくに見えていた。
ガルドが通信機を耳に当てたまま、カイのところに来た。顔が険しい。煙草を咥えているが、火はついていない。煙草の先が、乾いた唇の端で揺れている。
「コンラッドから連絡が入った」
声だけで、ことの深刻さが分かった。
「アイアンウェルにグランヴェルトの偵察隊が接近している。先遣部隊は銘殻1機と汎殻4機の小規模精鋭。指揮はゲルハルト・ナルセン」
ゲルハルト・ナルセン。その名前だけで、雪の中で対峙したあの夜が戻ってくる。父の名を口にして機体を退いた男。引き金を引けたはずで、引かなかった男。カイがゲルハルトの右腕を狙った瞬間、ガルドが機体で割り込んで止めた。あの時はその意味が分からなかった。今も完全には分からない。
「ゲルハルトが来たのか」
「ストーンクロスをセルヴィスが制圧した隙に、グランヴェルトも動き出した。灰域の空白地帯を押さえる気だ」
バートンが通信に割り込んだ。
「これは最悪の展開だ。東からセルヴィス、西からグランヴェルト。灰域は二つの統治機構体に挟まれている」
カイは地図を広げた。ガルドが以前に手書きで写した灰域の地形図。指でストーンクロスの位置をなぞる。ここを失った。東の縁はもうセルヴィスの色だ。指を西へ動かす。アイアンウェルの鉄鉱山、ラストヘイム。ここをグランヴェルトに取られたら、残った灰域は東西から潰される。
「2正面作戦は無理だ」
ボルトが苦い声で言った。
「残殻はもう5機だ。弾もない。……セルヴィス1つで手一杯だってのに、そこへグランヴェルトかよ」
コンラッドの声が通信に入った。アイアンウェルからの中継だ。
「ここを取られたら、灰域の鉄殻補修が止まる。アイアンウェルの鉄鉱石と鍛冶場がなければ、残殻の部品は作れない。頼む、何とかしてくれ」
沈黙が流れた。
焚き火の爆ぜる音だけが響く。
ガルドが口を開いた。
「一つ手がある」
全員の目がガルドに向いた。
「ヴィルヘルムは鋼城のデータを探している。テオが灰域に隠した設計データだ。データの場所を知っているのは俺だけだ。これが交渉カードになる」
カイはガルドを見た。
「データの場所を教えるのか」
ガルドは首を振った。
「教えない。だが、『教えるかもしれない』と思わせることはできる」
ガルドの目つきが変わっていた。煙草を持つ手が止まり、視線が宙の一点を測っている。技匠の目じゃない。15年前、あの組織の中で人を動かしていた頃の目だ。
「ヴィルヘルムに直接通信する。グランヴェルトの通信周波数は、俺がいた頃から変わっていない。あの男は合理的だ。データが欲しいなら、灰域を荒らすより俺と交渉した方が早いと判断するはずだ」
バートンが眉を顰めた。
「危険だ。通信を送れば、位置を特定される可能性がある」
「短時間なら大丈夫だ。グランヴェルトの通信解析は三角測量方式で、精度は半径10キロ程度。30秒以内に切れば、こちらの正確な位置は掴めない」
「やるのか」
「他に手がない」
沈黙が落ちた。バートンは何か言いかけて、やめた。ボルトは腕を組んで目を閉じている。リントが小さく舌打ちをした。反対でも、賛成でも、誰もそれ以上は口を開かなかった。
遠くで子供の泣き声がした。テントの向こう、住民の区画からだ。すぐに止んだ。静かになった分だけ、焚き火の音が大きく聞こえた。
カイは黙ってガルドを見ていた。
ガルドの顔は平静だった。だが指先が微かに震えている。煙草を持つ左手の、火傷の跡がある中指と薬指。あの指は感覚が鈍い。震えているのは恐怖か、それとも古い記憶か。
「ガルド」
「何だ」
「あのラスボスは、どんな男だ」
ガルドは一瞬、苦笑した。
「ラスボスか。そうだな、確かにそうかもしれない」
煙草を口から外し、火のつかない先端を見つめた。長い沈黙だった。焚き火が弾けた。
「悪人じゃない。それが一番厄介だ」
カイは黙った。
「俺がグランヴェルトにいた頃、ヴィルヘルムは若かった。俺より10歳下で、理想に燃えていた」
煙草を指でくるくると回した。
「灰域の混乱を見て、統制があれば人が死なずに済むと信じていた。それは本気だった。20年経って手段が変わっても、あの芯は変わっていない」
「変わっていないから悪い」
「ああ」とガルドは言った。「変わらない信念が、一番人を殺す」
カイはガルドの横顔を見た。火のつかない煙草をまだ指の間で持っている。その横顔には、何か言い切れないものが残っていた。
「ヴィルヘルムは秩序を信じている。灰域の混乱を見て、統制が必要だと本気で思っている。鋼城はその統制のための道具だ」
「それは違う」
腹の底から反発がせり上がった。
「ああ、違う。だが、あの男がそう信じていることを否定するのは簡単じゃない」
カイは焚き火を見た。揺れる炎の向こうに、老人や子供の影がある。ストーンクロスを追われた800人が、ヴィルヘルムの「統制」によってここにいる。それが人を救うことだと信じる男によって、この人たちは家を失った。違うとは分かる。だが、何と言って否定するのか、カイには言葉がなかった。
ガルドは煙草をポケットに戻した。
「通信は明日の朝に入れる。30秒以内に終わらせる。俺一人でやる」
「俺も聞く」
「駄目だ」
「聞く」
ガルドはカイを見た。
カイの目は、テオに似た灰色だった。一度決めたら動かない目だ。
「好きにしろ」
夜が更けていく。
焚き火の明かりが小さくなり、避難民たちがテントに戻っていく。空には雲が広がり、星は見えない。
明日、ガルドはかつての上司に通信を入れる。
15年ぶりに。
カイは地図を畳み、ケストレルの格納場所に戻った。
鉄紺色の機体が、夜の闇の中で静かに立っている。右肩のフレームが露出したまま、冬の夜気に晒されている。
ケストレルに手を当てた。装甲板の継ぎ目を指でなぞる。整備士の手が勝手に、機体の状態を読もうとする。ここは先日の被弾で歪んでいる。このフレームは応急処置のまま、ちゃんとした溶接ができていない。弾の尽きた武装ラック。部品が足りない場所が、指の先に次々と浮かんでくる。アイアンウェルの鍛冶場がなければ、これ以上直せない。その事実が、冷えた金属の感触とともに手に届いた。
この機体を作った男と、この機体を使った男。ガルドとテオ。2人がかつて、グランヴェルトの中にいた。2人がそこから逃げ出し、灰域に流れ着いた。
明日の朝、ガルドはその場所へ通信を入れる。15年前に捨てた場所へ、自分から声をかけに行く。
そしてヴィルヘルムは、まだあの中にいる。




