リオンの覚悟
撤退の行軍は3日目に入っていた。
ストーンクロスを失った灰域の抵抗勢力は西へ後退し、ラストヘイムとアイアンウェルを結ぶ線で態勢を立て直そうとしている。冬の灰域を歩く民間人の列は長く、遅く、脆かった。一日に進める距離は知れている。子供や老人を抱えた列は、戦闘員だけなら半日で抜ける道のりに、もう3日かかっている。その間ずっと、コルヴァスが背後から追いついてくる恐れと、隣り合わせだった。
リオンは行軍の後方で借り物の残殻のコックピットに座っていた。座席のスプリングが背中に食い込む。右膝の戻りがいつも半拍遅れてくるので、その半拍を頭で先に数えて埋める。動かそうと思うより先に動いてくれたポラリスとは何もかも違った。
ポラリス。
エマが自分の冴覚にぴったり合わせてくれた機体。あれは借り物ではなかった。動かそうと思うより先にもう動いていた。自分の脚を動かすのと同じだった。
今はもうない。膝の遅れを一拍数えて自分でずらし、やっと追いつく。この残殻も、本来はトワが乗っていた古い機体だ。ガルドが座席とペダルを体格に合わせ直してくれたが、合わせ直したところで、借り物は借り物だった。それでも、一歩ごとに灰域の雪を踏みしめて、進む。何を捨ててきたのかを思い知らされながら。だが不思議と、後悔はなかった。ポラリスを失ったことは惜しいけれど、それを失ってでもこちら側に来たことを、間違いだとは思わない。少なくとも今のところは、そう思えている。
夜営地に着いた。そこは旧世界の道路の跡地で、割れたアスファルトの隙間から灰原草が生えている。焚き火の煙が低い雲に溶けていく。
リオンは残殻から降りて焚き火の近くに座った。
周りにはストーンクロスから避難してきた人々がいる。毛布にくるまった老人や、母親にしがみつく子供。誰の顔にも疲れが貼りついていた。荷車に積まれた鍋や、ほどけた荷物の紐。あれを全部まとめて、明日もまた歩き出すのだ。
その中の一人と目が合った。年配の女だった。彼女はリオンを一度だけ見てすぐに目を逸らした。セルヴィスの軍服はもう着ていないが、この女はリオンがどこから来た人間か知っているのだろう。何も言わずに毛布を子供にかけ直していた。
あの子供たちを焼く側に自分はいた。冴覚児童回収計画。番号をつけて回収される子供。この列の中にも適性を持った子がいるかもしれない。セルヴィスにいれば、そういう子を「素材」として連れていく仕事にいつか加担していた。
だからこちら側に来た。理屈ではそうだ。だが本当にそれだけかと問われると、リオンには答えられない。カイがいたから。ガルドがいたから。灰域に、自分を一人の人間として扱ってくれる場所があったから。理由を一つに絞れないまま、足だけがこの列と一緒に西へ歩いている。
リオンは自分の手を見た。灰域の砂埃で汚れ、爪の間には油と錆が黒く染みついている。セルヴィスにいた頃は毎日石鹸で洗っていた手だ。
もうあの頃の手には戻らない。
カイが焚き火の反対側に座った。手に雑穀粥の椀を二つ持っていて、その一つをリオンへ差し出した。
「食え」
「ありがとう」
受け取った椀は温かかった。匂いは薄く、塩味だけの素朴な粥で、セルヴィスの食堂とは比べるまでもない。だが両手で包むと、その温かさが冷えた指に染みた。
「悪くない味だ」
そう言うとカイは少し意外そうな顔をした。
「ストーンクロスの飯は、もっと不味かった。マーサのやつ以外は」
「これは、その不味い飯と同じやつだけど」
「……そうか」
カイがばつが悪そうに粥をすする。リオンは小さく笑った。久しぶりに口元が緩んだ気がした。マーサがいつか言っていた。食べ物は温かければ半分は合格、と。冷えた手に椀の温度がじんわり伝わってくる。半分は合格だ。今のリオンには、その半分でもありがたかった。
粥を口に運びながら、リオンは考えていた。自分は今何者なのか。
参謀長の娘。第三機装師団の少尉。そのどれも、もう遠い。指の油を椀の縁で拭った。あの肩書きもポラリスの操縦桿の感触も全部置いてきた。残ったのは借り物の残殻と、向かいで黙って粥を食う男だけだ。
足元のセルヴィス支給のブーツに目を落とした。軍服は脱いだ。階級章も外した。だがこのブーツだけはまだ履いている。新しいのが手に入らなかったと言い訳をすれば済む。だが本当は、最後の一枚を自分から剥がすのが怖かったのかもしれない。
もういいだろう。
「カイ」
「何だ」
「私……もうセルヴィスの人間じゃない」
乾いた喉から音を絞り出すように言った。言ってしまえば戻れない。分かっていながら、それでも言った。
「灰域で、戦う」
カイは粥を食べる手を止めなかった。一口飲み込んでから答えた。
「知ってた」
胸の底でちりっと熱が跳ねた。
「知ってたなら、もっと早く言いなさいよ」
「お前が自分で決めることだろう」
言い返そうとして飲み込んだ。
カイの言う通りだった。誰かに背中を押されて決めることではない。それでも誰かに「そうだ」と言ってほしかった自分が確かにいた。その甘えに今、気づかされた気がした。
灰色の空を見上げる。雲が低い。明日も雪だろう。
戻る道はもうない。戻れば父が動く。あの人の名を一枚ずつ剥がして娘の首を繋ぐのだ。そんな代償の払わせ方を自分はしたくなかった。
いや。本当にそう思っているのか、それともただ怖いだけなのか。戻ったところで待っているのは裏切り者への処断だ。その冷たさが首筋をかすめていく。父にすがれば命は繋がるかもしれない。だが、あの人の背中に、それを背負わせるくらいなら。
考えがそこで止まる。リオンは粥の椀を両手で握り直した。指先だけがまだ冷たかった。
ガルドが焚き火の近くを通りかかった。二人を見てわずかに口元を緩め、何も言わずに通り過ぎていった。
しばらく二人とも黙って粥を食べた。焚き火がときどき爆ぜる。
「ポラリスを、取り戻さなければ」
声に出すと途方もない目標だった。セルヴィスの軍事施設に保管されている銘殻を脱走兵が奪い返すなど、正気の沙汰ではない。
カイが頷いた。
「まずは、生き延びないとな」
生き延びる。それが今の二人にとって、一番切実なことだった。コルヴァスは追ってくる。戦力は壊滅的に足りない。勝ち目を数えれば数えるほど薄いと、軍人として育った頭が、勝手に弾き出してしまう。それでも、ここで戦うと決めた。決めた以上は、その薄い目を数える役目も、自分が引き受けるしかなかった。
リオンはもう一口、粥を飲んだ。
「カイ」
「何だ」
「帰って来い。絶対に」
カイが顔を上げてリオンの目を見る。焚き火の光がその灰色の目に映っていた。
「帰って来いって、どこに」
どこに。問い返されて一瞬、言葉に詰まった。
「ここに。灰域に」
言ってから、続きが勝手に口から出た。
「私が、いる場所に」
言ってから自分でも少し驚いた。いつのまにかここを「私のいる場所」と呼んでいた。喉のあたりが妙に熱い。
カイは少し間を置いて答えた。
「ああ。帰る」
焚き火が爆ぜ、火の粉が舞い上がって夜空に消えていく。
リオンは残りの粥を飲み干した。もう冷めかけていたが、それでも最後まで飲んだ。明日も歩く。冷たい雪の中を、この人たちと一緒に。




