静かなる崩壊
リーヴ・シェイドは、ストーンクロスの食堂に座っていた。
制圧した集落の、住民が去った後の食堂。壁には、子供が描いた絵が残っている。赤と黄色の花。太陽。四角い家と、その横の棒人間。灰域の子供が描く絵は、どこの集落でも同じだった。花と太陽。灰域の灰色の空の下には、ほとんど見られないものを、子供たちは描く。見たこともないものを、描く。
昨日まで、ここで子供が暮らしていた。その子供を、リーヴたちが追い出した。正確には、追い出される前に、住民が自分から逃げた。どちらでも同じことだ。この集落を空にしたのは、リーヴたちだ。
テーブルの上に、軍用レーションが開かれている。
リーヴはスプーンを口に運んだ。温かい。それだけが分かった。塩味も甘味も、何も来ない。舌の上に、固形物の質感だけがある。粒の粗さ。水気の少なさ。それは分かる。噛んで飲み込む。胃に落ちる。だがその間ずっと、口の中は空っぽのままだった。
窓の外から、セルヴィスの兵士たちの声が聞こえる。集落の施設を点検し、前線補給基地として転用する作業が進んでいた。灰域の集落が、セルヴィスの前線基地になる。住民が積み上げてきた暮らしの上に、軍が天幕を張っていく。
ダリオが食堂に入ってきた。右耳にイヤーピースを押し込みながら、リーヴの向かいに座る。
「隊長、報告を」
「言え」
「灰域の住民は西に撤退しました。ストーンクロスはもぬけの殻です。家具と壁の落書きが残っています。屋根の上に、鉄くずの風見鶏が一つ」
ダリオの声に、ノイズが混じっている。本人の声ではない。ダリオの耳の側の音だ。いつからか、ダリオは聞き返すことが増えた。今も、報告しながら指先でイヤーピースを押し込んでいる。リーヴはそれについて訊かない。訊いたところで、何も変わらないからだ。
ダリオは、自分より長く戦場にいる。鋳脈の年季も長い。耳から先に逝った。リーヴは味覚と左手から来ている。壊れる順番は違うが、行き着く先は同じだ。ダリオを見ていると、何年か先の自分を見ている気がした。それを、なるべく考えないようにしている。
「風見鶏か」
「ええ。鉄くずで作った手製のやつです。集落の屋根に載ってました」
リーヴは窓の外を見た。食堂の隣の建物の屋根に、錆びた鉄片で作られた鳥の形が、風に揺れている。不格好な風見鶏だ。翼は左右非対称で、胴体はボルトとリベットの塊。だが、誰かが丁寧に形を整えたことは分かる。
自分の生まれた集落にも、似たものがあった。
屋根の上で、何かが回っていた。母に手を引かれて、それを見上げた。冬の朝で、息が白かった。あれは風の鳥よ、と母が言った。低くて、柔らかい声だった。鳥は風が吹くたびに向きを変えて、きいきいと錆びた音を立てていた。その音を、リーヴは今でも覚えている。気がする。
いや。母が本当にそう言ったのか、それとも後から自分で作った記憶なのか、もう判じがつかない。4歳の記憶など、そんなものだ。鋳脈の劣化が、古い記憶の輪郭を、年ごとに削っていく。確かなのは、あの風見鶏が回っていたことと、繋いだ母の手が温かかったこと。それくらいだ。
その温もりも、今のこの左手では、もう感じ取れない。あの集落は、自分が4歳の時に、セルヴィスに焼かれた。今しがた自分が空にしたこの集落と同じように。
フィンが食堂に入ってきた。
「灰域の連中、しぶといっすね。あれだけ押されて、まだまとまって退いてる。普通ならバラバラに逃げるもんでしょう」
「バートン・セオの統率力だろう」
リーヴはレーションの容器を置いた。食事は終わった。空になった容器を見下ろす。温かかったはずの食事の記憶が、もう何の味も伴わない。腹は満たされた。だが、満たされた気はしなかった。食べるという行為から、味という手応えが抜け落ちて久しい。
「フィン」
「はい」
「お前は、腹が減るか」
「え。ええ、まあ。今もちょっと」
「レーションは、美味いか」
「不味いっすよ。塩気が強すぎて。……あ」
フィンが、言葉を途中で止めた。口をつぐむ。それから、何でもないふうに肩をすくめた。
リーヴは答えなかった。塩気が強い。その感覚が、もう分からない。フィンは、リーヴが味を失っていることを知っている。なぜ口をつぐんだのか、訊かなかった。下手に気を遣われるより、口を滑らせて慌てて引かれるくらいが、よほど楽だ。
「ナディルが、ダリオさんに遊肢の整備を聞きたいって言ってました」
「行け。俺はもう少し、ここにいる」
フィンとダリオが食堂を出ていった。ダリオは出際に一度だけ振り返り、リーヴの顔を見た。何か言いかけて、やめる。イヤーピースを押し込み直しながら、扉を閉めた。
一人になった食堂で、リーヴは集落の通りへ出た。
住民が去った後の、静まり返った通り。半開きの扉が、風に軋んでいる。覗くと、奥には倒れた木椅子と、棚に並んだままの食器があった。鍋も毛布も、そのまま。急いで逃げたのだろう。
いつもなら、この時間は炊事の煙が上がっているはずだ。子供が路地を駆け、誰かが井戸の水を汲んでいるはずだ。今は、何の音もしない。風が、空いた家の中を吹き抜けていくだけ。人だけがいない。生活の道具は全部そこにあるのに、それを使う人間が、一人もいない。
灰域の生まれだ、と思う。自分も4歳まで、こういう集落で暮らした。今、その灰域の集落を空にする側に、自分は立っている。
通りには、灰域の匂いがした。カビと、煤けた獣脂の匂い。4歳まで自分が吸っていたのと同じ匂いが、気味が悪いくらい、体に馴染む。それがひどく不快で、リーヴは奥歯を噛んだ。
住民を逃がしてやった、とは思わない。逃げられただけマシだ、と冷たい声が胸の奥でする。素材として回収されなかっただけ、運がいい。そう突き放しておきながら、突き放している自分の冷たさからは、目を逸らしている。見たくないものには、すぐ蓋をする。それ以上、考えるのをやめた。
子供の絵があった。さっきの食堂のものとは別の家の、壁。やはり花と太陽。灰域の子供は、見たこともないものを描く。リーヴも、昔そうだったのかもしれない。覚えていないが。
ソルスティスの前に立った。
コックピットに手をかける。ハッチの金属が冷たい。右手の掌に、その冷たさが刺さった。これはまだ分かる。右手はまだ生きている。
左手で、同じ場所に触れた。何も感じない。冷たさも、金属の硬さも。同じハッチに触れているのに、左右で世界が違う。
夜空を見上げた。灰色の雲の切れ間から、星が数個。子供の頃に見たのと、同じ空だった。あの集落で見た空も、たぶんこんなふうだった。
14歳で鋳脈を受けて、6年。味が先に消えた。次に左手。順番までは、誰にも分からない。ヘルガに残りの年数を聞いたのは一度きりで、それきり訊いていない。聞いたところで、止められるわけではない。素子を抜けば神経が壊れる。残せば劣化が進む。選べる道など、最初からなかった。14歳のあの日に、自分でそれを選んだ。強くなりたかった。もう、奪われたくなかった。
まだ戦える。遊肢は4基とも、思ったとおりに動く。母機の操縦に、支障はない。
だが、いつまでもつのか。
リーヴは左手を握った。開いてまた握る。指先は、もう何も返してこない。それでも指はちゃんと動いた。今はそれでいい。




