撤退戦
ストーンクロスの防衛線は、わずか3日で崩壊した。
コルヴァスの攻勢は灰域側の予想を超えていた。リーヴの遊肢4基が防衛線の要所を狙い撃ちにし、その間に汎殻部隊が正面から押し上げる。残殻のFALKEは汎殻の正面装甲に当たっても火花を散らして滑るだけだった。抜けない。撃っても抜けない。その事実がじわじわと防衛線を後ろへ押した。
カイも、寝る間もなく出撃を続けた。出撃しては戻り、壊れた装甲を応急で塞いで、また出る。その繰り返しだった。だが塞いだそばから、次の被弾で剥がれていく。直すよりも壊される速さの方が、ずっと速かった。整備士として、それが一番こたえた。
フィン・カーターの汎殻がリントの残殻に食らいついた。高機動の格闘で間合いを詰め、リントの右腕を肘から吹き飛ばす。火花と装甲片が雪に散った。リントは左腕だけで応戦しながら後退し、辛うじて生き延びた。あの右腕は先月カイが組み直したばかりだった。
4日目の朝、バートンが決断を下した。
「ストーンクロスを放棄する」
通信越しの声は平坦だった。いつもと何も変わらない。だからこそカイは言葉を返せなかった。この壁を築いたのもこの集落を守ってきたのもバートンだ。それをあの平坦な声で捨てると言った。
「住民を西へ逃がす。戦闘員は、殿を頼む」
殿。追撃を受けながら最後に退く部隊。損耗率が最も高い。
カイはケストレルで東の防衛線に残った。ボルトが正面に立ち、左翼をリントが、右翼をトワが固める。リオンは住民の避難誘導にまわった。残殻に乗れる戦闘員はカイを含めて8機。対してコルヴァスの汎殻は7機以上。性能差まで含めれば勝ち目のない数だった。
住民の避難が始まった。
800人のストーンクロスの住民が西へ向かって歩き出す。老人も子供も、赤ん坊を抱えた女もいる。荷車に毛布と最低限の食料を積み、白い息を吐きながら雪道を進んでいく。家を捨て、住み慣れた集落を捨て、それでも生きるために、ただ西を目指して歩く。誰も泣いていなかった。泣く余裕すら、もうないのだ。
列の中に見知った顔があった。先週ケストレルの装甲板を直した礼にと、芋をひと袋持ってきてくれた老人だ。老人はカイのケストレルをひと目だけ見上げ、それから前を向いて振り返らずに歩いていった。守らなければならない。その背中の重さがケストレルの脚にのしかかってくる気がした。
カイは東を見た。
コルヴァスの汎殻が前進してくる。ケストレルのFALKE短銃身型で牽制射撃を繰り返す。撃つたびに、弾倉の重さが引き金越しに軽くなる。残りがあと何発か、指が覚えている。
ボルトの残殻が正面の汎殻2機と組み合った。近接距離まで踏み込んで体当たりで押し返す。だが汎殻の装甲は厚い。残殻の打撃では致命傷を与えられない。
「ボルト、退け。無理するな」
「うるせえ。まだ住民が出切ってない」
ボルトの残殻の胸部装甲が汎殻の拳に陥没した。それでもボルトは退かない。右腕のDINGO散弾砲を零距離で叩き込み、汎殻の左脚関節を吹き飛ばした。
右翼でトワを援護していた一機が崩れた。汎殻の拳を胸部に受け、膝から雪に沈む。ハッチが内側から蹴り開けられ、操手が転がり出るのが横目に映った。生きている。だが機体はもう動かない。回収しに戻る余裕はどこにもなかった。
あの機体の関節もカイが整備した。脚の動きが渋いと言われてグリスを差し直した手触りが、まだ指に残っている。それが今、雪の中で動かなくなっている。
また一機、左脚を失って転倒した。灰域には、新しく機体を作る余裕などない。一機失えば、それきりだ。雪の中に倒れた残殻は、もう二度と立ち上がらない。
住民の列はまだ西門から尽きない。撃っては退き、また撃つ。一機落ちるたびに防衛線が縮む。穴が空けばそこから汎殻が雪崩れ込み、避難民の列に届いてしまう。それだけはさせられない。背後の避難民が全員出切るまでここを抜かせるわけにはいかなかった。
カイは冴覚を限界まで張った。複数の汎殻の動きを同時に読み、最も危険な射線に機体を割り込ませる。一機を抑えている間に別の一機が回り込んでくる。手が足りない。脚が足りない。それでも止めるしかなかった。背中で住民の足音が少しずつ遠ざかっていく。その音だけを支えにカイは引き金を引き続けた。
時間の感覚がなくなっていく。撃ち続けているうちに味方の残殻が3機動かなくなった。操手は全員辛うじて脱出した。だが機体は回収不能だ。一機また一機と、灰域の戦力が雪の中に置き去りにされていく。
バートンから通信が入った。
「住民の避難、完了した。全戦闘員、退いてくれ」
カイはケストレルを後退させた。殿の中の殿。最後に退く。
背を向けた瞬間に撃たれる。だから正面を向いたまま退く。操縦桿を引きながらFALKEの残弾で牽制を続けた。手のひらの汗が手袋の中でじっとりと冷えている。喉が干上がっていた。あと一機追撃が食い込んでくれば、この満身創痍のケストレルでは捌けない。それが分かっていて退くしかない。
最後の数発を追撃してくる汎殻の足元に撃ち込んだ。直撃は狙わず、弾着の爆風で雪と土を巻き上げて視界を遮る。
FALKEの弾倉が空になった。
銃を捨てる。撃てる手段が一つ減った。
ケストレルが西に走る。背部スラスターを点火して短い加速で距離を開けると、機関温度が赤域の手前まで跳ね上がった。剥き出しになった右肩のフレームに走るたび冬の冷気が流れ込んでくるのを機体越しに感じた。
ストーンクロスの西門を抜ける。
振り返った。
集落が冬の夕暮れの底へ沈んでいく。バートンが15年かけて築いた防壁の上で、セルヴィスの旗が風に煽られていた。
いつもならこの時間、炊事の煙が上がっているはずだった。壁の内側で子供の声が反響し、ガルドの作業場から金属を叩く音が響く。今は、何の音もしない。灯りが一つずつ消えていき、石と鉄だけが夕暮れに黒く沈んでいった。
カイが育った場所だ。守りたかったその全部が、たった4日で敵の旗の下に沈んだ。
殿を走り抜いたケストレルの隣に、僚機の駆動音はもうない。さっきまで一緒に戦っていた3機を、あの集落の手前に置いてきた。操手は生きている。だが機体を失った操手はもう戦えない。守るべき集落も守る手段も両方削られた。
それでも生き延びてしまった。
灰域の中心が落ちた。
カイは操縦桿を握りしめた。WESPEの残弾ももう僅かだ。ケストレルはカイと同じだけ削られていた。
西の空が赤く染まっている。冬の短い夕暮れが灰域を朱色に照らしていた。避難する住民の列が、白い雪道の上に長く伸びている。集落は失った。仲間の機体も失った。守れたのは、あの雪道を歩く列だけだ。それだけしか、守れなかった。
取り戻す。
その言葉を、カイは誰にも言わなかった。ただ奥歯を強く食いしばって、西へ向かう住民の列を追って、ケストレルの脚を前に出しただけだった。




