グランヴェルトの影
撤退の行軍が5日目に入った時、新たな問題が浮上した。
ガルドが通信機を耳に当てたまま、カイのところに来た。顔が険しい。煙草を咥えているが、火はついていない。煙草の先が、乾いた唇の端で揺れている。
「コンラッドから連絡が入った」
コンラッド。アイアンウェルの責任者。灰域の鉄鉱山地帯を管理し、残殻の部品供給を担う男だ。灰域集落連合の三本柱の一つ。
「アイアンウェルにグランヴェルトの偵察隊が接近している。先遣部隊は銘殻1機と汎殻4機の小規模精鋭。指揮はゲルハルト・ナルセン」
ゲルハルト・ナルセン。父テオの元同僚。アルマナック36号機、銘殻バスティオンの操手。灰域を旅していた頃にカイと交戦し、見逃した男。
「ゲルハルトが来たのか」
「ストーンクロスをセルヴィスが制圧した隙に、グランヴェルトも動き出した。灰域の空白地帯を押さえる気だ」
バートンが通信に割り込んだ。
「これは最悪の展開だ。東からセルヴィス、西からグランヴェルト。灰域は二つの統治機構体に挟まれている」
カイは地図を広げた。ガルドが以前に手書きで写した灰域の地形図。ストーンクロスは灰域の中央東寄りに位置し、アイアンウェルは西の鉄鉱山地帯にある。ラストヘイムは更に西。
ストーンクロスを失った今、灰域の勢力圏は大幅に縮小している。東はセルヴィスに押さえられ、西にグランヴェルトが来れば、灰域は挟撃される。
「二正面作戦は無理だ」
ボルトが苦い声で言った。
「残殻は5機まで減った。弾薬も足りない。セルヴィスを相手にするだけで精一杯なのに、グランヴェルトまで来たら持たない」
コンラッドの声が通信に入った。アイアンウェルからの中継だ。
「ここを取られたら、灰域の鉄殻補修が止まる。アイアンウェルの鉄鉱石と鍛冶場がなければ、残殻の部品は作れない。頼む、何とかしてくれ」
沈黙が流れた。
焚き火の爆ぜる音だけが響く。
ガルドが口を開いた。
「一つ手がある」
全員の目がガルドに向いた。
「ヴィルヘルムは鋼城のデータを探している。テオが灰域に隠した設計データだ。データの場所を知っているのは俺だけだ。これが交渉カードになる」
カイはガルドを見た。
「データの場所を教えるのか」
ガルドは首を振った。
「教えない。だが、『教えるかもしれない』と思わせることはできる」
ガルドの目に、技匠ではない別の顔が浮かんでいた。
15年前までグランヴェルトの中枢にいた男の顔。組織の論理を知り、権力者の思考パターンを読める人間の顔だ。
「ヴィルヘルムに直接通信する。グランヴェルトの通信周波数は、俺がいた頃から変わっていない。あの男は合理的だ。データが欲しいなら、灰域を荒らすより俺と交渉した方が早いと判断するはずだ」
バートンが眉を顰めた。
「危険だ。通信を送れば、位置を特定される可能性がある」
「短時間なら大丈夫だ。グランヴェルトの通信解析は三角測量方式で、精度は半径10キロ程度。30秒以内に切れば、こちらの正確な位置は掴めない」
「やるのか」
「他に手がない」
カイは黙ってガルドを見ていた。
ガルドの顔は平静だった。だが指先が微かに震えている。煙草を持つ左手の、火傷の跡がある中指と薬指。あの指は感覚が鈍い。震えているのは恐怖か、それとも古い記憶か。
「ガルド」
「何だ」
「あのラスボスは、どんな男だ」
ガルドは一瞬、苦笑した。
「ラスボスか。そうだな、確かにそうかもしれない」
煙草を口から外し、火のつかない先端を見つめた。
「悪人じゃない。それが一番厄介だ」
カイは言葉の意味を考えた。
悪人なら、倒せばいい。正義と悪の二項対立なら、答えは簡単だ。だが相手が悪人でないなら、何を倒して何を守ればいいのか。
「ヴィルヘルムは秩序を信じている。灰域の混乱を見て、統制が必要だと本気で思っている。鋼城はその統制のための道具だ。あの男にとっては、鋼城を作ることが人を救うことなんだ」
「それは違う」
「ああ、違う。だが、あの男がそう信じていることを否定するのは簡単じゃない」
ガルドは煙草をポケットに戻した。
「通信は明日の朝に入れる。30秒以内に終わらせる。俺一人でやる」
「俺も聞く」
「駄目だ」
「聞く」
ガルドはカイを見た。
カイの目は、テオに似た灰色だった。一度決めたら動かない目だ。
「好きにしろ」
夜が更けていく。
焚き火の明かりが小さくなり、避難民たちがテントに戻っていく。空には雲が広がり、星は見えない。
明日、ガルドはかつての上司に通信を入れる。
15年ぶりに。
カイは地図を畳み、ケストレルの格納場所に戻った。
鉄紺色の機体が、夜の闇の中で静かに立っている。右肩のフレームが露出したまま、冬の夜気に晒されている。
この機体を作った男と、この機体を使った男。ガルドとテオ。二人がかつて、グランヴェルトの中にいた。二人がそこから逃げ出し、灰域に流れ着いた。
そしてヴィルヘルムは、まだあの中にいる。




