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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio SASAME
折れた天秤

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リオンの覚悟

撤退の行軍は3日目に入っていた。

 ストーンクロスを失った灰域(アッシュランド)の抵抗勢力は西に後退し、ラストヘイムとアイアンウェルを結ぶ線上で態勢を立て直そうとしている。冬の灰域(アッシュランド)を歩く民間人の列は、長く、遅く、脆い。


 リオンは行軍の後方で、借り物の残殻(ざんかく)のコックピットに座っていた。

 座席のスプリングが背中に食い込む。ペダルの位置がまだ足に合わない。右膝の関節は相変わらず0.3秒遅れる。この3日間で体が覚えてきたが、ポラリスとは何もかも違う。


 ポラリス。

 セルヴィスに残してきた銘殻(めいかく)。エマ・コーリンが調整した、自分のための機体。穿月銃の照準系統。肩部のNEBEL煙幕。足首の倍の可動域。全てがリオンの冴覚(さいかく)に最適化されていた。


 今のリオンには、それがない。


 夜営地に着いた。

 灰域(アッシュランド)の旧世界の道路の跡地。アスファルトが割れ、隙間から灰原草が生えている場所に、テントが並ぶ。焚き火の煙が低い雲に溶けていく。


 リオンは残殻(ざんかく)から降り、焚き火の近くに座った。

 周囲には灰域(アッシュランド)の住民がいる。ストーンクロスから避難してきた人々。老人は毛布にくるまり、子供は母親にしがみついている。誰の顔にも疲労が貼りついている。


 リオンは自分の手を見た。

 灰域(アッシュランド)の砂埃で汚れた手。爪の間に油と錆が染みている。セルヴィスにいた頃は、毎日石鹸で洗い、清潔に保っていた手だ。


 今はもう、軍人の手ではない。


 カイが焚き火の反対側に座った。

 手に雑穀粥の椀を持っている。もう一つの椀をリオンに差し出した。


「食え」

「ありがとう」


 リオンは粥を受け取った。温かい。匂いは薄い。塩味だけの素朴な粥。セルヴィスの食堂で出る食事とは比べるまでもない。


 だが温かい。

 マーサが言っていた。「食べ物はね、温かければ半分は合格なのよ」。


 粥を口に運びながら、リオンは考えていた。

 自分は今、何者なのか。


 セルヴィスの軍人。参謀長の娘。第三機装師団の少尉。ポラリスの操手(そうしゅ)

 その全てが、もう過去の肩書きだ。

 今のリオンは、借り物の残殻(ざんかく)に乗り、灰域(アッシュランド)の避難民と一緒に歩いている、身元不明の脱走兵。


 セルヴィスに戻れば、裏切り者として処断される。戦時の無断離隊は銃殺刑に相当する。父の権限で減刑される可能性はあるが、それは父の名声を消費することになる。リオンは父にその代償を払わせたくない。


 つまり、もう戻れない。


「カイ」

「何だ」

「私はもうセルヴィスの人間じゃない。灰域(アッシュランド)で戦う」


 カイは粥を食べる手を止めなかった。

 一口飲み込んでから、淡々と答えた。


「知ってた」


 リオンは眉を寄せた。

「知ってたなら、もっと早く言ってくれてもいいでしょう」

「お前が自分で決めることだろう」


 反論しようとして、やめた。

 カイの言う通りだった。誰かに背中を押されて決めるものではない。自分の足で歩いてきた道の延長線上に、この結論がある。


 ガルドが焚き火の近くを通りかかった。

 二人を見て、わずかに口元が緩んだ。何も言わずに通り過ぎたが、その背中に「よかったな」という空気が漂っていた。


 リオンは粥の椀を抱えたまま、灰色の空を見上げた。

 雲が低い。明日も雪だろう。


「セルヴィスから、ポラリスを取り戻す方法を考えなければ」


 声に出して言うと、途方もない目標だった。セルヴィス防衛機構の軍事施設に保管されている銘殻(めいかく)を、脱走兵が奪還する。正気の沙汰ではない。


 カイが頷いた。

「まずは生き延びないとな」


 生き延びること。

 それが今の二人にとって、最も切実な課題だった。コルヴァスは追ってくる。グランヴェルトも灰域(アッシュランド)に手を伸ばしている。灰域(アッシュランド)の戦力は壊滅的に不足している。


「カイ」

「何だ」

「帰って来い。絶対に」


 カイが顔を上げた。

 リオンの目を見た。紺色の目が、焚き火の光を映している。


「帰って来いって、どこに」

「ここに。灰域(アッシュランド)に。私がいる場所に」


 言ってから、リオンは自分の言葉に驚いた。

 「私がいる場所に」。それは、リオンがこの場所を自分の居場所と認めた瞬間だった。


 カイは少し間を置いて、答えた。

「ああ。帰る」


 焚き火が爆ぜた。

 火の粉が舞い上がり、夜空に消えていく。


 リオンは粥の最後の一口を飲み干した。

 温かかった。それで十分だった。

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