静かなる崩壊
リーヴ・シェイドは、ストーンクロスの食堂に座っていた。
制圧した集落の、住民が去った後の食堂。壁には子供が描いた絵が残っている。赤と黄色の花。太陽。四角い家と、その横に立つ人間の棒人間。灰域の子供が描く絵は、どこの集落でも同じだった。花と太陽。灰域にはほとんど見られないものを、子供たちは描く。
テーブルの上に、軍用レーションが開かれている。
リーヴはスプーンを口に運んだ。温かい。それだけが分かった。味はない。塩味も、酸味も、甘味も、何も感じない。食事は栄養摂取だ。カロリーとタンパク質を体内に送り込む作業。それ以上の意味を、リーヴの舌はもう受け取れない。
窓の外から、セルヴィスの兵士たちの声が聞こえる。集落の施設を点検し、前線補給基地として転用する作業が進んでいる。
ダリオが食堂に入ってきた。
右耳にイヤーピースを押し込みながら、リーヴの向かいに座る。
「隊長、報告を」
「言え」
「灰域の住民は西に撤退しました。ストーンクロスはもぬけの殻です。残されたのは家具と、壁の落書きと、鉄くずの風見鶏」
ダリオの声に、ノイズが混じっている。
本人の声にではない。ダリオの耳に。彼が聞いている世界が、少しずつ歪んでいるのだ。リーヴはそれに気づいている。ダリオも知っている。だが二人とも、それについて話さない。
「風見鶏か」
「ええ。鉄くずで作った手製のやつです。集落の屋根に載ってました」
リーヴは窓の外を見た。
確かに、食堂の隣の建物の屋根に、錆びた鉄片で作られた鳥の形が風に揺れている。不格好な風見鶏。翼は左右非対称で、胴体はボルトとリベットの塊。だが、誰かが丁寧に形を整えたことは分かる。
自分の生まれた集落にも、似たものがあった気がする。
4歳の記憶。曖昧で、色も音も薄い記憶。屋根の上で回っていた何か。母が「あれは風の鳥よ」と言った声。
記憶が正確かどうかは分からない。4歳の記憶なんてそんなものだ。
フィンが食堂に入ってきた。
「灰域の連中、しぶといですね。あれだけ押されて、まだまとまって退いてる。普通ならバラバラに逃げるのに」
「バートン・セオの統率力だろう」
リーヴはレーションの容器を置いた。食事は終わった。空になった容器を見下ろす。温かかったはずの食事の記憶が、もう何の感覚も伴わない。
「フィン」
「はい」
「お前は腹が減るか」
「え。ええ、まあ。今もちょっと」
「レーションは美味いか」
「不味いですよ。塩気が強すぎて。隊長も分かるでしょう」
リーヴは答えなかった。
塩気が強い。その感覚が、もう分からない。
フィンは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに取り繕った。賢い。空気を読める人間だ。
「あ、ナディルがダリオさんに遊肢の整備について聞きたいって言ってました」
「行け。俺はもう少しここにいる」
フィンとダリオが食堂を出ていった。ダリオは出際に振り返り、リーヴの顔を見た。何かを言おうとして、やめた。イヤーピースを押し込み直しながら、扉を閉めた。
一人になった食堂で、リーヴは自分の左手を見た。
手を握る。開く。また握る。
指先の感触がない。
掌にテーブルの木目が当たっているはずだが、何も感じない。温度も、質感も、圧力も。指が動いていることは目で確認できるが、触覚としてのフィードバックが届かない。
20歳。
14歳で鋳脈を受けて、6年。
冴覚と鋳脈の組み合わせは、通常の3倍から5倍の速度で神経を磨耗させる。ヘルガの試算では稼働限界は施術から10年。残り4年。いや、味覚の喪失速度を考えれば、もっと短いかもしれない。
まだ戦える。
まだ動ける。遊肢は4基とも正常に操れる。母機の操縦に支障はない。
だが、どれくらい持つのか。
リーヴは食堂を出た。
集落の通りを歩く。住民が去った後の、静まり返った通り。家の扉が開いたまま放置されている。中には家具が残り、棚には食器が並んでいる。急いで逃げたのだろう。持ち出せたのは最低限の食料と衣類だけ。
生活の痕跡だけが残る集落。
人間がいない集落は、死んだ機体と同じだ。外殻は残っているが、中身は空。
銘殻の前に立った。
ソルスティスの漆黒の装甲が、冬の低い日差しを吸い込んでいる。関節部の暗い朱が、血の色に似ている。
コックピットに手をかけた。
冷たい金属の感触。これは、まだ感じる。右手の掌はまだ生きている。
夜空を見上げた。
灰域の空。灰色の雲の切れ間から、星が数個見えた。子供の頃に見た空と、同じ空。
20歳。体は既に壊れかけている。
まだ戦える。まだ動ける。
リーヴは自分の左手を握り、開き、また握った。
指先の感触は、もうほとんどない。




