白い戦場
コルヴァスの本隊が来た。
リントの偵察報告。東の丘陵を越えて、10機以上の鉄殻がストーンクロスに向かっている。先頭に、漆黒の銘殻。
リーヴ・シェイドのソルスティス。
灰域側はボルトの指揮のもと、防衛線を展開した。残殻5機が丘陵の稜線に散開し、ストーンクロスの東壁を背にした半円形の陣を敷く。左翼をリントが、右翼をトワが固め、中央にボルトが構える。カイのケストレルは遊撃として、状況に応じて動く配置だ。
カイはコックピットで、機体の調子を指に問うた。燃料はまだ保つ。FALKEは30発そこそこ、WESPEはたっぷり残っている。DONNERは2発、手つかずで腰に下げたままだ。左肩の装甲だけが、前日までの連戦で抉れて、応答が一拍重い。整備した手が、計器を読むより先に機体の傷を撫でていく。動ける。まだ戦える。
そう、自分に言い聞かせなければならなかった。
東の雪原に、黒い影が現れた。
コルヴァスの汎殻部隊が横一列に展開する。その後方に、ただ一つ。漆黒の装甲に、暗い朱のアクセント。肩から背部にかけて、遊肢の懸架ユニットが大きく張り出している。頭部のバイザー型カメラに、赤い光が灯った。
ソルスティス。
前回対峙した時のことが、体に蘇る。あの時、カイは何もできなかった。ただ、圧倒的な力の前で、生きて帰れたことだけが奇跡だった。その記憶が、指先を冷たくする。
遊肢が展開された。
4基。背部の懸架アームが花弁のように開き、扁平なエイ型のユニットが一斉に射出される。4つの影が雪原の上空に散開し、ソルスティスの周囲に扇状の陣形を取った。
4つ。
前にダリオと戦った時は、2基だった。あの2基でさえ、カイを追い詰めた。その倍の数が、いま空のあちこちに浮かんでいる。20ミリ速射砲の砲口が、ぐるりと、こちらを取り囲んでいた。
カイの喉が干上がった。逃げ場がない。どこに動いても、必ずどれかの射線に入る。そういう配置に、もうなっている。
「全員、散開しろ。固まるな」
ボルトの声が通信に響いた。その声に、いつもの余裕はなかった。
遊肢が動いた。
4基が同時に加速し、灰域の防衛線に向かって突進してくる。20ミリ速射砲が火を噴き、弾雨が雪原を穿った。雪と凍った土が、いくつもの柱になって噴き上がる。
カイはケストレルを丘の稜線に沿って走らせた。遊肢の弾幕から逃れる。丘の裏に回り込み、射線を切る。
だが遊肢は追ってきた。2基がカイの背後に回り込み、残り2基が防衛線の他の機体を抑えている。逃げる先に、もう次の射線が待っていた。読まれている。動く前に、置かれている。リーヴは4基を二つに分けて、カイと味方を同時に潰しにかかっていた。
体は、前より動いていた。トワに叩き込まれた地形の使い方。ダリオ戦で覚えた踏み込みの間。読みより先に脚が跳ぶ瞬間が、確かに増えていた。
だが、4基は次元が違った。
丘を回り込んだカイの前に、遊肢が先回りしていた。
右。冴覚が叫ぶ。操縦桿を引く。ケストレルが沈み込み、20ミリ弾が頭上を通過した。間髪入れず、左から2基目の砲口が火を噴く。避けきれない。ケストレルの右肩に着弾。装甲が砕ける鈍い音が、シートを通して背中まで響いた。
まだ、届いてもいない。母機の影すら遠い。その手前で、もう削られている。
カイは丘の裏に飛び込んだ。一瞬だけ、射線が途切れる。
息が荒い。操縦桿を握る手に、汗が滲んでいる。手袋の中が、じっとり湿っていた。
考えろ。
射線を切って、母機に潜り込む。それしかない。だが、冴覚が母機を捉えても、4基の遊肢までは手が回らない。一つを読めば、二つ目の砲口が、もう退路を塞いでいる。リーヴは、カイがどこへ逃げるかを、カイより先に知っている。
読み切れない。
それでも――前に出るしかなかった。退いたところで、じわじわと削られて終わるだけだ。
カイはケストレルの背部スラスターを点火し、丘を跳び越えた。白い蒸気を引いて、ソルスティスへ直進する。
遊肢2基が反応した。射線がケストレルに集中する。カイは冴覚で弾道を読み、機体を左右に振りながら接近した。20ミリ弾が左右を通過する。1発が左腕の装甲を掠めた。機関温度が上がっていく。だが止まれない。
600メートル。500メートル。
ソルスティスが動いた。リーヴの母機が、前に出てくる。腰の双牙刀は抜いていない。代わりに、両前腕のWESPEが起動した。30ミリ連装の掃射が、ケストレルの進路を真正面から塞ぐ。
前からは母機の弾幕。左右からは遊肢。
逃げ道が、塗り潰されていく。
カイは操縦桿を引き、ケストレルを急制動させた。足裏の3本爪が雪を削り、火花を散らす。機体が停止する寸前に、左へ跳ぶ。遊肢の弾幕とWESPEの射線の、わずかな隙間を縫った。掠った弾が、装甲を何発も叩いていく。
通信が入った。リーヴの声だった。穏やかで静かな声。
「前より、動きが良くなった」
その一言が、カイの腹の底をかき乱した。
褒められている。だが、その声に焦りはない。手の届かないところから、値踏みされている。その事実が、屈辱として喉を塞いだ。カイは答えなかった。
遊肢が陣形を変えた。扇状から包囲へ。4基がケストレルを取り囲むように配置を変えていく。退路が、一つずつ塞がれていった。
カイの冴覚が、リーヴの母機の動きを読もうとした。ソルスティスの右肩が、わずかに沈む。踏み込みの予兆。来る。双牙刀の間合いに入る気だ。
そう読んだ。
だが、それは罠だった。カイが母機の動きに意識を奪われた、その一瞬を、遊肢が突いた。左後方の遊肢が射線を通し、ケストレルの左脚に20ミリ弾を叩き込む。
衝撃がコックピットを揺らした。左膝の応答が、急に鈍くなる。機体が、がくりと傾いだ。
しまった。読みを誘導された。
立て直す間もなく、次が来た。右からの遊肢が、ケストレルの右肩装甲を吹き飛ばした。残っていた装甲が、根こそぎ剥がれる。冷たい外気が、剥き出しになったフレームに直接当たるのを、カイは機体越しに感じた。無防備だ。次が来れば、その下のフレームごと、持っていかれる。
背筋が冷えた。これは、殺される間合いだ。
後退するしかない。
カイはケストレルを後退させた。痙攣しそうな手で操縦桿を引き、丘の稜線まで機体を這わせる。左脚が重い。関節の応答が遅れて、雪の上で何度もたたらを踏んだ。無様だった。だが、止まれば終わる。
稜線の裏に滑り込み、ようやく射線を切る。
追撃は来なかった。
ソルスティスは雪原に立ち止まったまま、遊肢だけが周囲を旋回している。リーヴは動かない。
装甲を剥がされて、無様に逃げ帰るこちらを――わざわざ追って仕留めるまでもない、と。そう判断されたのだ。見逃された。情けをかけられた。そのことが、敗北そのものより、ずっと惨めだった。
通信。
「次に会う時は、今日の続きだ」
リーヴの声には、余裕があった。だが、勝ち誇る響きはなかった。何を確かめに来たのか、カイには分からない。分からないまま、その静かな声だけが、耳の奥に残った。
カイは歯を食いしばった。剥き出しになったフレームから、冬の冷気が機体の奥まで這い上がってくる。拳が、操縦桿の上で固く握られたまま、ほどけなかった。
まだ届かない。
あれだけ前に出て、あれだけ読んで、それでも母機には掠りもしなかった。成長した、と言われた。だが、その成長はリーヴの掌の上だった。
白い雪原の向こうで、ソルスティスがゆっくりと反転し、本隊の方へ戻っていく。カイはそれを、動けないまま見ていた。




