ダリオの聴こえない世界
翌日の昼過ぎ、東の丘陵で黒い煙が上がった。
哨戒に出ていたリントの残殻が被弾し、黒煙を引きながら後退してくる。通信が入った。
「ダリオ・メイスだ。汎殻1機、遊肢2基。単独で突っ込んできた」
単独。本隊を待たず、ダリオ一人で突っ込んできた。何を考えているのか、読めない。読めないが、リントの残殻を一方的に削られた以上、放ってはおけなかった。
カイはケストレルを駆って、丘陵へ向かった。
到着まで4分。その間に、機体の状態を指で確かめる。弾はまだ残っている。燃料も保つ。前日の戦闘で少し食ったが、今日いっぱいは戦えるはずだ。DONNERの擲弾は2発、手つかずで腰に下げている。整備した手が、計器を読むより先に、機体の調子を勝手に拾っていく。冷えで関節が固くないか、装甲に前の戦闘の歪みが残っていないか。指先が、機体の隅々を撫でて確かめる。問題ない。動ける。
丘陵の稜線に出ると、ダリオの汎殻が見えた。
セルヴィス仕様の重装甲型。通常のウォーデンより一回り大きく、肩部に遊肢の懸架ハードポイントが増設されている。暗灰色の塗装。隊長機のソルスティスのような派手さはない。堅実で、無駄のない佇まいだった。
遊肢が2基、展開されている。扁平なエイ型のシルエットが、汎殻の左右に浮遊していた。20ミリ速射砲の砲口が、こちらを向いている。
カイの冴覚が、研ぎ澄まされていく。
前回の戦闘を思い出す。あの時は、ダリオの聴覚が壊れかけていた。その隙に足を踏み入れて、勝った。後味は、よくなかった。
ダリオの汎殻が動いた。
正面から圧力をかけるように、ゆっくり前進してくる。遊肢が左右に広がり、カイの退路を塞ぐように射線を構えた。遊肢で退路を断ち、母機で正面から押す。いつものダリオだ。
カイはケストレルを、丘の斜面に沿って横に走らせた。遊肢の射線から外れる。だが遊肢は追随してくる。右の遊肢が旋回し、カイの新しい位置へ砲口を向けた。
――遅い。
カイの冴覚が、それを捉えた。
右の遊肢の追随が、前回より鈍い。カイが動く。砲口が向く。その間に、半拍ぶんの空白がある。前はここまで開いていなかった。左の遊肢は正常だ。右だけが、置いていかれる。
右耳が、先に逝きかけている。
遊肢の感覚は、操手の聴覚と繋がっている。聴こえなくなった側の遊肢は、目を半分閉じたように鈍くなる。カイはそれを、整備士として知っていた。知っていて、それを今突こうとしている。
歯を噛んだ。これを突くのか。相手の体が壊れた、その場所を。
だが、その遅れがなければ勝てない。重装甲型のダリオに、ケストレルが正面から組んで勝てる道理はない。突くしかなかった。喉の奥に、苦いものがせり上がる。卑怯だ。それでも、引き金にかけた指は動かなかった。
考える暇は、なかった。
ダリオの母機が踏み込んできた。
近い。400メートル。300メートル。ダリオの汎殻がFALKEを構え、3連射を放つ。75ミリ弾がケストレルの周囲に弾着し、凍った地面を砕いた。
カイは右に跳んだ。スラスターを短く点火し、丘の裏側に滑り込む。丘の残骸が遊肢の射線を遮った。一瞬の猶予。
ここだ。
丘を盾にしたまま、ダリオの母機との距離を詰める。遊肢が丘を迂回して射線を取り直すまでの、わずかな時間。その数秒に賭ける。
丘の裏を回り込み、ダリオの汎殻の側面に出た。200メートル。近接の間合い。遊肢の精密射撃が効きにくい距離だ。
ダリオの母機が反応した。動きは鋭い。鋳脈者のフィードバックが、その応答を滑らかにしている。右腕のFALKEを捨て、腰の近接武装に手をかける。大型の鉄杭打ち、NAGELだ。
カイは鍛翼刀を抜いた。3.8メートルの片刃が、冬の空気を裂く。
ダリオのNAGELが、炸薬の圧力で鉄杭を射出した。コックピットの左を狙っている。カイは操縦桿を右に倒し、ケストレルを半身にずらした。鉄杭が左肩の装甲を掠め、火花が散る。
警告ランプが灯った。左肩の装甲を抉られた。だがまだ動く。
踏み込む。鍛翼刀を横薙ぎに振ると、振動機構が起動し、刀身が高周波で唸りを上げた。ダリオの汎殻が左腕で受ける。金属と金属が軋む轟音が、機体を通してコックピットまで響いてきた。鍛翼刀の刃が左前腕の装甲に食い込んで、止まる。
膠着。互いの機体が、組み合っている。
ケストレルの出力を上げる。刃をさらに押し込もうとする。だが、ダリオの母機はびくともしなかった。重装甲型の馬力は、ケストレルを上回る。鍔迫り合いでは、こちらが押し負ける。腕力で勝てる相手ではなかった。勝てるとすれば、あの遅れた右の遊肢、それだけだ。カイは奥歯を噛んだ。結局、そこに戻ってくる。
通信が入った。ダリオの声。ノイズ混じりの、掠れた声だった。
「……お前、前より速いな」
「あんたは前より遅い」
沈黙。ダリオは、否定しなかった。
遊肢が丘を迂回してきた。射線が通り始める。このままでは撃たれる。カイは鍛翼刀を引き抜き、後退した。ダリオの汎殻から距離を取る。
だが遊肢の追随が、やはり遅い。右の遊肢が射線を取り直すのに、たっぷり一拍以上かかった。その間にカイは丘の稜線に戻り、ダリオとの距離を500メートルまで開けた。
ダリオの汎殻が立ち止まった。遊肢を収容する動作。2基のエイ型ユニットが、肩部の懸架アームに戻っていく。戦う意思を、自分から下ろしたように見えた。カイはケストレルを止めたまま、撃たなかった。撃てなかった、のかもしれない。
通信。ダリオの声。今度はノイズが、更にひどい。
「聞こえるか」
「聞こえる」
「……右耳が、もう駄目だ。左も、通信が拾えなくなった」
カイは、何も言えなかった。
「殺せ」
平らな声だった。怒りも諦めも、何も乗っていない。
「断る」
カイの声は、硬かった。
沈黙が流れた。雪が降り始めていた。白い粒が、コックピットのバイザーを叩く。
ダリオの汎殻が後退を始めた。背を向けず、ゆっくりと東へ退いていく。撃ってくれと言った男が、撃たれずに帰っていく。その背中は、来た時よりも重たく見えた。カイは操縦桿から手を離して、それを見送った。追わなかった。
密閉されたコックピットに、自分の浅い息だけが響く。首筋に張りついた汗を、袖で乱暴に拭った。右の遊肢の引っかかり。何度も聞き返してくる、あのひび割れた声。前より、確実に進んでいる。
ネイサンの言葉が、耳の奥で蘇った。
鋳脈は借金だ。体で払う借金。
ダリオは今も、その借金を払い続けている。
腹の底で、嫌な安堵がじわりと広がった。またこれだ。内側から壊れていく相手の体に助けられて、自分は息をしている。その安堵が、自分の腕で勝ったわけではないという事実を、よけいに重くした。カイはシートに背を沈め、しばらく顔を上げられなかった。
雪は、いつの間にか本降りになっていた。ケストレルの装甲を、ゆっくりと白く染め始めている。
これは勝利なのか。
答えは出なかった。




