ダリオの聴こえない世界
翌日の昼過ぎ、東の丘陵で煙が上がった。
哨戒に出ていたリントの残殻が被弾し、黒煙を引きながら後退してくる。通信が入った。
「ダリオ・メイスだ。汎殻1機、遊肢2基。単独で突っ込んできた」
カイはケストレルを駆って丘陵に向かった。
到着まで4分。その間に、計器を確認する。燃料残量83%。弾薬、FALKE残弾38、WESPE残弾284。前日の偵察隊との戦闘で少し減っている。DONNER対装甲擲弾筒は2発とも健在。
丘陵の稜線に出ると、ダリオの汎殻が見えた。
セルヴィス仕様の重装甲型。通常のウォーデンより一回り大きく、肩部に遊肢の懸架ハードポイントが追加されている。漆黒ではなく暗灰色の塗装。コルヴァスの機体だが、隊長機のソルスティスとは異なる堅実な佇まい。
遊肢が2基、展開されていた。
扁平なエイ型のシルエットが、ダリオの汎殻の左右300メートルに浮遊している。20ミリ速射砲の砲口が、こちらを向いている。
カイの冴覚が研ぎ澄まされる。
前回の戦闘を思い出す。あの時は、ダリオの聴覚劣化による隙を突いて勝った。勝ったというより、相手の体の限界に助けられた。苦い記憶。
ダリオの汎殻が動いた。
正面から圧力をかけるように、ゆっくりと前進する。遊肢が左右に広がり、カイの退路を断つように射線を構える。遊肢で退路を封じ、母機で正面から押す。ダリオの基本戦術。堅実で、穴がない。
カイはケストレルを丘の斜面に沿って横に走らせた。
遊肢の射線から外れる。だが遊肢は追随してくる。右の遊肢が旋回し、カイの新しい位置に砲口を向けた。
――遅い。
カイの冴覚がそれを捉えた。
右の遊肢の反応が、前回より更に遅い。0.2秒。いや、もっとか。砲口の追随が鈍く、カイの移動に対して常に半拍遅れている。
左の遊肢は正常に近い動きをしている。だが右が遅い。
ダリオの聴覚劣化が進んでいる。遊肢のセンサーフィードバックには聴覚系も含まれる。聴覚が死に始めた側の遊肢は、空間把握の精度が落ちる。
カイは歯を噛んだ。
これを突くのか。相手の体が壊れている隙を。
考える暇はなかった。
ダリオの母機が踏み込んできた。
近い。
400メートル。300メートル。ダリオの汎殻がFALKEを構え、3連射を放つ。75ミリ弾がケストレルの周囲に弾着し、凍った地面を砕く。
カイは右に跳んだ。スラスターを短時間だけ点火し、丘の裏側に滑り込む。
丘の残骸が遊肢の射線を遮る。一瞬の猶予。
ここだ。
カイは丘を盾にしたまま、ダリオの母機との距離を詰めた。遊肢が丘を迂回して射線を取り直すまでの時間。その数秒が勝負になる。
丘の裏を回り込み、ダリオの汎殻の側面に出た。
200メートル。近接の間合い。遊肢の精密射撃が効きにくい距離。
ダリオの汎殻が反応した。母機の動きは鋭い。鋳脈者としてのフィードバックが、機体の応答を滑らかにしている。右腕のFALKEを捨て、腰の近接武装に手をかける。大型の鉄杭打ち、NAGELだ。
カイは鍛翼刀を抜いた。
3.8メートルの片刃が冬の空気を裂く。
近接戦。
ダリオのNAGELが炸薬の圧力で鉄杭を射出した。コックピットの左を狙っている。カイは操縦桿を右に倒し、ケストレルを半身にずらす。鉄杭が左肩の装甲を掠め、火花が散った。
装甲健全度、左肩64%。警告ランプが点灯する。
カイは踏み込んだ。
鍛翼刀を横薙ぎに振る。振動機構が起動し、刀身が高周波で震える。ダリオの汎殻が左腕で受けた。金属と金属が軋む轟音。鍛翼刀の刃がダリオの左前腕装甲に食い込み、止まった。
膠着。
互いの機体が組み合っている。
通信が入った。ダリオの声。
ノイズ混じりの、掠れた声。
「……お前、前より速いな」
「あんたは前より遅い」
沈黙。
ダリオは否定しなかった。
遊肢が丘を迂回してきた。射線が通り始める。このままでは撃たれる。
カイは鍛翼刀を引き抜き、後退した。ダリオの汎殻から距離を取る。
だが遊肢の追随が、やはり遅い。
右の遊肢が射線を取り直すのに1秒以上かかった。その間にカイは丘の稜線に戻り、ダリオとの距離を500メートルまで開けた。
ダリオの汎殻が立ち止まった。
遊肢を収容する動作。2基のエイ型ユニットが肩部の懸架アームに戻っていく。
通信。
ダリオの声。今度はノイズが更にひどい。
「聞こえるか」
「聞こえる」
「……右耳が、もう駄目だ。左も、通信を拾いきれなくなってきた」
カイは何も言えなかった。
「殺せ」
ダリオの声は平坦だった。感情が削がれたのではない。感情を乗せる余裕が、もう残っていないのだ。
「断る」
カイの声は硬かった。
沈黙が流れた。
雪が降り始めていた。白い粒がコックピットのバイザーを叩く。
ダリオの汎殻が後退を始めた。背を向けず、ゆっくりと東へ退いていく。
カイはそれを見送った。
追撃しなかった。
コックピットの中で、額の汗を拭う。
ダリオの右の遊肢の動きの鈍さ。通信を聞き返す癖。前回より、確実に悪くなっている。
ネイサンの言葉が蘇った。
「鋳脈は借金だ。体で払う借金」。
ダリオは今、その借金を払い続けている。聴覚で。味覚で。指先の感触で。戦場に立つたびに、少しずつ人間の部分を差し出している。
カイは操縦桿を握りしめた。
勝った。だがまた、相手の体の壊れた部分に助けられた。
これは勝利なのか。
答えは出なかった。




