リーヴの記憶
眠れなかった。
テントの布の天井を、ただ見つめている。布が風に揺れるたびに、外の光が微かに透ける。月はない。灰域の空は厚い雲に覆われている。闇の中に布目だけがぼんやりと浮かんでいた。
目を閉じた。閉じた瞼の裏に古い記憶が浮かぶ。
4歳の記憶だ。
灰域の小さな集落。名前は覚えていない。覚えていたはずの音がいつの間にか口から出てこなくなった。母の声で呼ばれた集落の名がもう思い出せない。
だが感覚の断片は残っている。
母の手を覚えている。
細く荒れていて、爪がいつも短かった。リーヴの小さな手をすっぽり包む大きさで、いつも少し汗ばんでいた。握り返すと血の通った熱が皮膚の裏側から伝わってきた。
朝、母に手を引かれて集落の中を歩いた。足元は泥だった。裸足だったか靴を履いていたか、そこは思い出せない。空気は冷たく息が白かった。母の歩幅は大きく、リーヴは半分駆けるようについていった。繋いだ手だけがその速さの中で唯一動かない場所だった。母が何か言った。言葉は覚えていないが、声の音色だけが残っている。低く柔らかな、リーヴの名前を呼ぶ声だ。
集落には他にも人がいた。男の人。女の人。子供。犬の声。錆びた鉄の匂いがいつもしていた。
セルヴィスの汎殻が来た日。
轟音だった。地面が揺れ、世界が割れる音だと思った。足元の全部が急に信用できなくなった。家屋が崩れる音、人の叫び声、埃と煙で視界が灰色になった。
母がリーヴを抱き上げて走った。押し付けた胸から狂ったような鼓動が響いてくる。背中を抱える母の指先がひどく小刻みに震えていた。
爆発。近かった。熱い風が顔を叩き、泥と煙の匂いがした。そして背中を押さえる重みが、ふいに消えた。
その後の記憶は断片的だ。泣いていたのだろう。叫んでいたのかもしれない。暗く寒かった。どれくらいの時間が経ったか分からない。
次に目を覚ました時、リーヴは白い天井の下にいた。
セルヴィスの保護施設。清潔で温かく、食事があった。灰域の集落にはなかったものが全てあった。白い壁。白い床。規則正しく並んだベッド。消毒液の匂い。スープの湯気。パンの柔らかさ。
母はいなかった。
リーヴは母を探した。施設の中を歩き回り、廊下を走って扉を叩いた。職員に聞いた。「おかあさんはどこ」。職員は困った顔をして別の職員を呼んだ。別の職員がリーヴの前にしゃがみ、目を合わせて言った。「お母さんはもういないの。ここで暮らしましょうね」。
「もういない」。その言葉の意味は分からなかった。死んだのか、どこかへ行ったのか。ただ母の手の温もりが戻ってこないことだけが体のどこかで分かった。
施設の子供たちは皆同じような境遇だった。灰域から保護された行き場のない子供だ。泣く子も暴れる子もいたが、リーヴは黙っている子だった。泣いても母は来ないし、暴れても何も変わらない。夜、ベッドの中で、リーヴは自分の右手で左手を握った。母の手の温もりを思い出そうとして、けれど、それはもう手のひらの記憶にしか残っていなかった。誰の手も、母の手の代わりにはならなかった。
施設では定期的に検査があった。小さな部屋。白い壁。ヘッドギアを被せられ、画面に映る光点を目で追う。音を聞いて方向を答え、指先にものを触れさせて何に触れたか答え、液体を舐めて何の味かを答える。
リーヴは検査の成績が良かった。光点の追跡が正確で音の方向の判別が速かった。何が良かったのかは子供には分からなかった。ただ検査の後に職員が話しているのが聞こえた。
「この子は素養がある。上に報告を」
素養。それが何を意味するかを知ったのはもっと後だ。やがて訓練が始まった頃、初めて「冴覚」という言葉を聞いた。お前には特別な感覚があると言われた。
特別。その言葉が、胸の奥に小さく灯った。それが何なのかは、まだ言葉にならない。ただ、特別ならここに置いてもらえる。もう二度とあの手が離れない場所が、ここにあるのかもしれない。
訓練は毎日だった。逃げる場所はない。反抗する子供や施設を逃げ出そうとする子供もいたが、リーヴは逃げなかった。灰域に戻っても母はいないし、集落もない。ここが唯一の場所だった。
いつからか汎殻のコックピットに座るようになった。狭い空間。計器の光。操縦桿の重み。機体が一歩を踏み出すと、地面を踏む感触が自分の足で踏んだように返ってきた。
冴覚が発現したのはその頃だ。教官が驚いた顔をしたのを覚えている。同年代の訓練生の中でリーヴの反応速度だけが桁違いだった。検査の数値を見て、教官が一度言葉を失い黙り込んだ。
施設からは士官学校へ送られた。素養のある子供が行く場所だ。そこでリーヴは「特別」であり続けた。
14歳で鋳脈を「志願」した日。
白い手術室。手術台に横たわり天井を見つめた。後頭部から頸椎にかけて麻酔が効いている。首から下が重い。手術着の白さがあの保護施設の天井と重なった。
怖くなかった。手術台の白い天井を見上げながら、なぜ自分は怖くないのだろうと、ぼんやり思った。怖いものなら4歳のあの日に使い果たした。母の手が離れたあの瞬間から、何かを怖いと思ったことが一度もない。それが強さなのか、ただ壊れているだけなのかは、リーヴにも分からなかった。
残っていたのは渇望だけだった。強くなりたい。もう奪われたくない。もう何も失いたくない。
手術は成功した。目を覚ました時、世界が変わっていた。初めて機体のセンサーに繋がれた瞬間、全身に感覚が流れ込んできた。装甲の厚み。関節の張力。地面を踏む脚部の重量。360度の空間。狭い手術台の上で失われかけていた自分の輪郭が、鉄の巨人の大きさまで一気に広がっていく。その重さの中で、リーヴは初めて、息を深く吸えた気がした。この体なら、もう奪われずに済む。手術台の上で、リーヴはそう思った。
そして6年が過ぎた。
味覚を失い、左手の触覚が鈍くなった。あの日に手に入れた力が今の体を内側から蝕んでいる。
リーヴは目を開けた。
テントの天井。暗闇。風の音。焚き火は消え、野営地は静かだ。
母の手の温もりはもう感じられない。
左手の指先に感覚がないのと同じように。あの温もりは記憶の中にだけ残り、感覚としてはもう二度と手に入らない。4歳の記憶は遠く、その輪郭が年ごとに曖昧になっていく。いつか母の手の記憶すら消えるのかもしれない。
リーヴは立ち上がった。
テントの入口を開けた。外は暗く、焚き火の灰が僅かに赤く光っているだけだ。空気は冷たく吐く息が白い。冬の灰域の夜だ。
朝が来る。任務がある。
だが朝が来れば、命令がある。倒すべき敵がいて、後ろに守るべき部下がいる。考えるのは、それだけでいい。
リーヴはテントに戻って寝袋に入った。左手をポケットに押し込み、右手でジッパーを引き上げる。左手の指先は冷たいはずだが冷たさを感じない。
目を閉じた。
朝になればソルスティスに乗る。コックピットの中に入れば、機体を通じた感覚がリーヴを完全な人間に戻してくれる。あの鉄の中でだけ、自分はまだ自分でいられる。
では、その鉄が壊れたら。その先を考えるのは、やめにした。リーヴは左手をもう一度握り込んだが、やはり何も返ってこなかった。




