部下たちの夜
焚き火の光が夜の野営地を橙色に染めていた。
リーヴはテントの入口に座り、少し離れた焚き火を見ていた。布越しではなく入口の布を捲って直接だ。冬の夜風が顔に当たり、冷たいと頬が応える。顔はまだ生きている。死につつあるのはいつも末端からで、左手の指先はもう冷たさを返さない。
フィン、ナディル、ハルの3人が焚き火を囲んでいる。火にかけた缶から湯気が立ち、誰かが棒で薪を突いて火の粉が舞った。明日も進軍だが、今夜だけは若い操手たちが夜の時間を持て余している。
ハルが両手を大きく広げて何か言った。大柄な体が焚き火の影を伸ばし、琥珀色の目と白い歯が光る。家計のために軍へ来て手当のために鋳脈を入れた、崇高な理想も復讐心もないどこにでもいる若者だ。それがこのコルヴァスでいちばんよく笑う。声が大きく身振りも大きくて、笑うときは喉の奥まで見せて笑う。
フィンが突っ込みを入れた。生意気な声が冬の空気を切る。何を言ったのかは聞き取れないがハルが大袈裟にのけぞる仕草をして、また笑いが起きた。フィンが得意げに鼻を鳴らす。こういう軽口の応酬はコルヴァスでフィンの専売だ。
ナディルが控えめに笑った。ナディルの笑い方は小さく、口元だけが動いて音は殆ど出ない。作った笑いなのか本当の笑いなのかリーヴには判じきれないが、ただ音の出ない笑い方だった。
3人の笑い声が上がり、火の粉が一斉に夜空へ昇っていく。
リーヴはその光景を眺めた。焚き火を囲む3人の輪。橙色の光が3つの顔を下から照らしている。その輪の外の光の届かない暗がりに自分がいる。
あの輪に入ったことは一度もない。
隊長が部下と同じ火を囲んでどうすると、昔の自分なら理屈をつけただろう。指揮官が部下と馴れ合えばいざという時に命令が鈍る。そう自分に言い聞かせてきたが、今は理屈の方が後づけだと分かっている。
本当のところはもっと単純で、ただ笑えないのだ。ハルの冗談に口元がゆるみかけた瞬間、その裏で自分が何を失いつつあるかを思い出す。一度緩めた頬をまた引き締めなければならない。忘れてまた思い出すときの落差がただ怖いから、最初から緩めない方がいい。
あの火は温かいのだろう。だがその温かさを心から味わえる時間が、自分にはもうそう長くは残っていない。温かいと知ってしまえばそれを失う日のことばかり考えてしまう。だったら知らないままでいた方が楽だった。理由を並べることはできても、足が前に出ないことに変わりはなかった。
ハルの声が聞こえた。今度ははっきりと。
「隊長も来ませんか。火、温かいですよ」
ハルはいつもこうで、断られると分かっていて誘ってくる。リーヴが何度首を振っても次の夜にはまた同じ顔で声をかけてくる。コルヴァスの中でリーヴをただの人間として扱おうとする唯一の男だ。
その翳りのなさを一瞬疎ましく思った自分がいたが、すぐに打ち消した。ハルは何も悪くない。
「寝る」
リーヴは短く断った。
ハルは「いつもそうだ」と肩をすくめ、焚き火に向き直った。傷ついた様子はない。断られても次の機会にまた声をかけるのがハルだ。フィンが何か言い、ハルがそれに笑い返す。リーヴの断りはもう輪の中で波紋一つ立てずに沈んでいた。それでいい。最初から自分はそこにいないものとして数えられている方が楽だった。
テントに入った。布の天井が頭上にある。灯りは消した。外の焚き火の光が布を透かして天井に橙色のにじみを作っている。それが時折人影で揺れた。暗闇の中でリーヴは横になった。寝袋の冷たさが背中に伝わり、冬の地面の硬さが薄い布越しに腰を押し上げてくる。それは分かる。背中も腰もまだ生きている。
寝袋の中で自分の左手を握った。
右手で左手を包むと、右の掌に左手の温度が伝わってくる。温かい。生きている人間の手だ。指の節の硬さも皮膚の乾きも、右手はちゃんと拾う。
だが左手は何も感じなかった。
右手が触れている感覚がない。掌の温度も指先の圧力も何もない。右の爪を左手にめり込ませても痛みや触れられている圧すら返ってこない。指を曲げれば関節は軋むし操縦桿も握れる。だがそこに自分の手があるという手応えだけがごっそりと抜け落ちている。まるで他人の手だ。いや、他人の手ならまだ温かさくらいは分かるだろう。
左手の感覚が消え始めたのは半年ほど前だった。最初は指先だけ。爪の先がじんと痺れ、それが何日かで麻痺に変わった。次は第一関節まで進み、今は掌の半分が他人のものになっている。境目ははっきりしている。手首に近い側はまだ温度を拾うが、指に近い側は何も返さない。その境目が月ごとに少しずつ手首へ向かって登ってくる。
あと何年この体が保つのか。
ヘルガに数字を聞いたのは一度きりで、それきり訊いていない。聞かなくても左手が答えを先に教えてくる。残りの速度はもう数えたくなかった。
味覚は既にない。左手の触覚がいま失われつつある。次は何だ。右手か。それとも聞こえなくなるのか。ダリオは耳から来たが、自分は手から来ている。同じ鋳脈でも壊れる順番や速さはてんでばらばらだ。ただ自分の方が早いという予感だけが左手の冷たさと一緒にあった。
数年先の自分を思い描こうとしても像が結ばなかった。輪郭が霞む。そこにいるのがまだ操手でいられる人間なのか、機体に乗せられているだけの抜け殻なのか判じがつかない。
いつからか、体の点検が癖になっていた。朝起きると、まず指を動かす。爪を立てて、どこまで感覚があるかを確かめる。舌で頬の内側をなぞって、味が戻っていないかを試す。耳を澄まして、左右で聞こえ方に差が出ていないかを聴く。生きている部分を一つずつ数えて、まだ大丈夫だと自分に言い聞かせる。その点検で、指の止まる回数が、月ごとに増えていた。
もしかしたらいつか操縦桿を握る感触すら分からなくなるのかもしれない。計器を読む目が霞み、通信越しの部下の声がノイズに埋もれていく。それでもソルスティスのセンサーは世界を伝え続けるのだろう。鉄の体だけが無事で中身の自分が先に消えていく。そういう壊れ方をリーヴは何度も夢に見た。
焚き火の方でフィンの笑い声がひときわ高くなった。あいつらは自分の体が何年保つかなんて数えたこともないのだろう。その無頓着さが少しだけ羨ましい。そう思う自分をすぐに押し込めた。隊長が部下を羨んでどうする。
リーヴはテントの布越しに焚き火の光を見た。揺らめく橙色が布を透かして薄く見える。暖かそうだ。だが温度は届かない。手を伸ばせば、布の冷たさが右手に触れる。その向こうの熱だけが、どうしても届かない。
それでも音は届いた。布は光を透かすように声も透かす。
フィンの笑い声が聞こえ、ナディルの声が聞こえ、ハルの声が聞こえた。
まだ聞こえる。
その一事にほっとしている自分がいた。耳が無事なだけで安堵する。その安堵そのものがいちばん情けなかった。だが、情けないと思いながらも、その音から耳を離せなかった。聞こえているうちは、まだ自分はここにいる。そう思える材料が、もうそれくらいしか残っていない。
ハルが歌い始めた。セルヴィスの民謡だ。音程は少し外れており、フィンが茶化す声が聞こえる。ナディルが手拍子を打っている。誰かが調子はずれの声で合いの手を入れて、また笑いが弾けた。
リーヴは目を閉じた。
残された耳だけがうるさいほどに生きていた。その音が遠くなるまでリーヴは起きていた。




