部下たちの夜
焚き火の光が、夜の野営地を橙色に染めていた。
リーヴはテントの入口に座り、少し離れた場所の焚き火を見ていた。テントの布越しではなく、入口の布を捲って、直接。冬の夜風が顔に当たる。冷たい。右頬は冷たさを感じる。左頬も感じる。顔の触覚はまだ生きている。左手の指先が先に死んでいく。末端から中枢に向かって、感覚が壊死していく。
フィン、ナディル、ハルの3人が焚き火を囲んでいる。
ハルが何か言った。両手を大袈裟に広げるジェスチャーをしている。181センチの大柄な体が影を作り、焚き火の光に照らされた顔は、いつものように笑っている。琥珀色の目が光り、白い歯が見える。ハル・ブレント。23歳。鋳脈あり。遊肢2基。軍に入ったのは家計を助けるため。鋳脈を受けたのは手当が上がるから。崇高な理想も復讐心もない普通の若者が、コルヴァスという異常な場所で、ムードメーカーを務めている。
フィンが突っ込みを入れた。19歳の生意気な声が、冬の空気を切る。ハルが更に大袈裟な身振りをして、ナディルが控えめに笑った。ナディルの笑い方は小さい。口元だけが動いて、音は殆ど出ない。だがそれが本当の笑いだとリーヴは知っている。作った笑顔ではなく、安心した時だけ出る笑い。
3人の笑い声が夜の空気に溶けていく。風に混じって、遠くなって、消える。
リーヴはその光景を眺めた。焚き火を囲む3人の輪。その輪の外に、自分がいる。
自分はあの輪に入れない。入ったことがない。
隊長だから。命令を出す側の人間は、命令を受ける側の人間と同じ焚き火を囲めない。指揮官が部下と馴れ合えば、いざという時に命令が鈍る。切り捨てなければならない判断を、馴れ合いが妨げる。
鋳脈者だから。リーヴの体は壊れかけている。その事実を隊員たちの前で見せるわけにはいかない。隊長が弱っている姿は、部隊の士気を損なう。
壊れかけている人間だから。味覚を失い、左手の触覚が鈍くなり、20歳にして体の残り時間を数え始めた人間が、普通の若者の輪に入れるはずがない。ハルの冗談に笑う余裕が、リーヴにはない。笑えば、自分が何を失っているのかを一瞬忘れてしまいそうで、忘れた後に思い出す時の落差が怖い。
どの理由が本当なのか、リーヴ自身にも分からなかった。おそらく全部だ。
ハルの声が聞こえた。今度ははっきり。
「隊長も来ませんか。火、温かいですよ」
ハルはいつもそうだ。リーヴを輪に誘う。コルヴァスの中で、リーヴを対等の人間として扱おうとする唯一の存在。シーラはリーヴに心酔し、ダリオは黙って従い、ナディルは慕い、フィンは距離を測る。ハルだけが、ただ「一緒に来ませんか」と声をかける。その声に裏がない。ハルの温かさは計算ではなく、天性のものだ。
「寝る」
リーヴは短く断った。
ハルは「いつもそうだ」と肩をすくめ、焚き火に向き直った。傷ついた様子はない。ハルはそういう人間だ。断られても落ち込まず、次の機会にまた声をかける。その繰り返しが、リーヴにとっては救いでもあり、痛みでもある。
テントに入った。布の天井が頭上にある。灯りは消した。暗闇の中で、リーヴは横になった。
寝袋の中で、自分の左手を握った。
右手で左手を包む。右手の指先は、左手の温度を感じる。温かい。体温がある。生きている人間の手だ。
左手は何も感じなかった。
右手が触れている感覚がない。掌の温度も、指先の圧力も、何も。まるで他人の手を握っているようだ。いや、他人の手ならまだ温かさは分かるだろう。左手は、リーヴの左手でありながら、リーヴの感覚から切り離されている。神経が信号を運ばなくなった手。まだ動く。まだ操縦桿を握れる。だが「握っている」という感覚が、薄くなっている。
20歳。
この体があと何年保つか。
ヘルガ・キルシュの試算を、リーヴは知っている。冴覚と鋳脈を併せ持つ操手の稼働限界は、施術からおよそ10年。個人差はある。だが統計的には10年。リーヴは14歳で鋳脈を受けた。6年が経過している。残りは4年。24歳。
4年後の自分を想像しようとして、像が結ばなかった。味覚は既にない。左手の触覚が失われつつある。次は何だ。右手か。聴覚か。視覚か。ダリオは8年で聴覚を大きく損なった。リーヴの劣化速度はダリオより速い。冴覚が鋳脈の負荷を倍加させる。
4年後。もしかしたら、操縦桿を握る感触すら分からなくなっているかもしれない。コックピットの中で、計器を読む目が霞んでいるかもしれない。通信越しの部下の声が、ノイズに埋もれているかもしれない。
リーヴはテントの布越しに焚き火の光を見た。揺らめく橙色が、布を透かして薄く見える。暖かそうだ。だが温度は感じない。布一枚の向こうにある熱を、テントの中からは知覚できない。あの焚き火の前にいれば、温かさを感じるだろう。だがリーヴはテントの中にいる。
フィンの笑い声が聞こえた。高く、生意気で、若い声。
ナディルの声が聞こえた。控えめで、穏やかな声。
ハルの声が聞こえた。大きく、温かく、何の翳りもない声。
まだ聞こえる。耳は、まだ生きている。
その事実に、リーヴは安堵した。安堵している自分が情けなかった。20歳の人間が、耳が聞こえることに安堵しなければならない。普通の20歳は、そんなことを考えもしない。
ハルが歌い始めた。セルヴィス管区の民謡だ。音程は少し外れていて、フィンが茶化す声が聞こえる。ナディルが手拍子を打っている。
リーヴは目を閉じた。
まだ聞こえる。その事実だけが、今夜のリーヴを眠りに導いた。




