コルヴァスの朝
軍用レーションのパッケージを開けた。
灰色の固形物が、銀のパウチの中に収まっている。高カロリー、保存性重視。セルヴィスの配給食は味より機能を優先する設計だ。栄養バランスは計算し尽くされているが、食べる人間の舌のことは計算に入っていない。兵士に必要なのはカロリーであって、味覚の満足ではない。
リーヴ・シェイドは、それを口に入れた。
味がしなかった。
塩味すら感じない。舌の上に固形物の質感がある。粒子の粗さ。水分の少なさ。それは分かる。噛む。歯が物理的に砕く感触がある。顎の筋肉が動く感覚がある。飲み込む。喉を通り、食道を下る感覚がある。胃に落ちる。だが味はない。
味覚が、殆ど死んでいる。
正確に言えば、完全にゼロではない。極端に濃い味なら、微かに感じることがある。軍医の診断では「味蕾の信号伝達が著しく減衰している」とのことだった。鋳脈のリレー素子が頸椎の神経を通じて味覚中枢に干渉し、信号のノイズが味覚を埋もれさせている。治療法はない。素子を摘出すれば神経系が損壊する。素子を残せば劣化が進む。選択肢はない。
リーヴは表情を変えず、機械的にレーションを口に運び続けた。食事は栄養摂取だ。味は関係ない。必要なカロリーを必要な量だけ体に入れる。それだけの行為。
野営地の食堂は、テント布で囲われた簡易的な空間だった。コルヴァスのストーンクロス制圧後の前進拠点。折り畳み式のテーブルが4つ並び、パイプ椅子が雑然と置かれている。暖房はなく、操手たちは防寒着の上にコートを羽織って食事を取る。テーブルの上に置かれたランタンが、黄色い光を揺らしている。
フィンが向かいの席に座った。パッケージを開け、中身を見て、顔をしかめる。鮮やかな緑色の目が、嫌悪感を隠さない。
「せめてもう少し味をつけてくれよ。これ食ってると、自分が人間なのか機械なのか分からなくなる。毎日同じ色、同じ形、同じ味。いや、味なんてあるのか、これに」
リーヴは黙ってレーションを噛んだ。フィンが「同じ味」と言ったことが、どこか遠い場所の話に聞こえた。リーヴにとっては「同じ味」ですらない。無味だ。全ての食事が等しく無味。灰域の粗い蒸留酒も、管区の上等なワインも、軍のレーションも、全て同じ。何も感じない。
「贅沢だな。灰域の連中はこれより酷いものを食っている」
ナディルが横から口を挟んだ。レーションを黙々と食べている。童顔で年齢より若く見える21歳の顔に、表情は控えめだが、声には棘がなかった。事実を述べているだけだ。ナディルは灰域出身だ。セルヴィスの保護プログラムで回収されるまで、灰域の集落で暮らしていた。灰域の食事がどんなものか、体で知っている。
「灰域に合わせろってのか」
「そうは言っていない。ただ、文句を言えるだけマシだと思え」
フィンは肩をすくめた。レーションに文句を言いながらも、きちんと食べている。フィンは鋳脈を持たない。コルヴァスの中で唯一の非鋳脈操手。味覚が正常な、唯一の人間。だからレーションの味に文句が言える。他の隊員たちは、味覚が鈍くなっているか、失いかけているか、既に失っている。文句を言うほどの味を感じていない。
リーヴはナディルを見た。
21歳。リーヴと同じ灰域出身。同じ保護プログラムの出身。鋳脈を受けたのはリーヴより7年遅いが、同じ道を歩いている。遊肢2基の操作はまだ不安定で、戦闘中にプレッシャーがかかると精度が落ちる。だが潜在能力は高い。集中できた時の遊肢運用はダリオに匹敵する。
あの子も、いずれ自分のように壊れるのか。味を失い、触覚を失い、聴覚を失い、操手として機能しなくなる日が来るのか。リーヴはその考えを振り払った。今は考えるべきことではない。
ダリオが食堂に入ってきた。大柄な体をテーブルの端に収め、黙ってレーションを開ける。動作に無駄がない。寡黙な男は、食事も寡黙にこなす。右耳にイヤーピースが入っている。聴覚補助装置。軍の医療班から支給されたものだが、ヘルメットと干渉するため戦闘中は使えない。つまり、戦闘中のダリオは右耳が殆ど聴こえない状態で戦っている。
「調子はどうだ」
リーヴが声をかけた。隊長として、部下の状態を把握するのは義務だ。だが義務だけで聞いているのではない。ダリオの聴覚の劣化は、リーヴ自身の未来を映す鏡だ。
ダリオは首を横に振った。寡黙な男の動作は、いつも最小限だ。
「最近は、右耳がほぼ聴こえない。左も怪しくなってきた。通信のノイズが増えている。戦闘中に指示を聞き逃すことがある」
ダリオの声は低く、抑揚がない。報告するように事実を述べている。感情は含まれていない。含める余裕がないのか、含める感情が残っていないのか。8年間の鋳脈使用は、感情すらも摩耗させるのかもしれない。
リーヴは何も言えなかった。
慰めの言葉は嘘になる。大丈夫だとは言えない。大丈夫ではないから。ダリオの聴覚は戻らない。劣化は進行する一方だ。リーヴにできるのは、ダリオの聴覚が残っているうちに、通信の指示をより明確に出すことだけだ。
フィンはダリオのイヤーピースを見ていた。フィンの目に映るダリオの姿は、リーヴには分かる。恐怖と、そして自分があの装置を必要としないことへの安堵。フィンは兄が鋳脈で廃人になった過去を持つ。あのイヤーピースは、フィンにとって兄の姿を思い出させる装置だ。
レーションを食べ終えた。味のない食事。栄養を摂取するだけの行為。かつて、食事には味があった。甘い、辛い、塩辛い、酸っぱい、苦い。5つの味覚が世界を彩っていた。保護施設で出された温かいスープの味を、リーヴは覚えている。いや、覚えていたはずだ。今はもう、その記憶すら曖昧になっている。スープは温かかった。それは覚えている。だが、何の味がしたか。塩味か。野菜の甘みか。もう思い出せない。
リーヴは食堂を出た。
野営地の中央にソルスティスが立っている。漆黒の装甲。関節部の暗い朱。背部に折り畳まれた遊肢の懸架アーム4基が、冬の薄い光の中で影のような輪郭を描いている。10.8メートルの銘殻は、アルマナック・シリーズNo.65。「冬至」という名を持つ機体。一年で最も昼が短く、闇が長い日。
リーヴはコックピットに手をかけた。ハッチの金属が冷たい。左手の指先に、感触がない。冷たさが分からない。右手で同じ場所に触れると、鉄の冷たさが指先に突き刺さる。左手では分からない。右手では分かる。同じ手なのに、左右で世界が違う。
ハッチを開け、コックピットに体を滑り込ませた。操縦席に座る。操縦桿に手を置く。リレー素子のフィードバック回線に繋がる瞬間、後頭部から首筋にかけて微かな振動が走る。接続の証。
世界が変わった。
ソルスティスのセンサーが捉える全ての情報が、リーヴの感覚に流れ込んできた。装甲に当たる風の圧力。脚部が踏みしめる地面の硬さ。凍った土の固さ。関節部にかかるトルク。周囲360度の音響データ。風の方向、風速、野営地のテントの布が鳴る音、遠くで回る発電機の低い唸り。
味覚がない。左手の触覚が鈍い。だが、鋳脈のフィードバックの中では、機体のセンサーが代わりに「感じて」くれる。装甲に触れる雪の粒を、リーヴは自分の肌で感じるように知覚した。左手の指先では感じられない冷たさが、ソルスティスの装甲センサーを通じて伝わってくる。風の温度が分かる。空気の湿度が分かる。
この鉄の箱の中でだけ、自分は完全な人間でいられる。
失った感覚を機体が補い、壊れかけた体を鋳脈が支える。コックピットの中のリーヴは、最強の操手だ。遊肢4基を十本の指の延長として操り、本体の白兵戦と同時にこなす。この世界に、リーヴ・シェイドに勝てる操手はいない。
銘殻の中だけが、リーヴの居場所だった。




