手を伸ばす
格納庫の空気は、油と金属粉の匂いで満ちていた。冷えた鉄の匂いも混じって、鼻の奥にざらりと残る。
ストーンクロスの格納庫は旧世界の立体駐車場を改造したもので、天井が高く、壁面に鉄骨が剥き出しになっている。コンクリートの床には油の染みが何層にも重なり、黒い地図のような模様を描いていた。歩くたびに、靴底が薄く張った油膜を踏んで小さく鳴る。作業灯の黄色い光が、格納庫の奥を照らしている。その光の中に、ケストレルが佇んでいた。漆黒の装甲が、光の届かない上半身を闇に溶かしている。
漆黒の装甲に工具の光が散る。関節の暗い金色が、鈍く光った。この機体のことなら、どのボルトがどこにあるかまで体が覚えている。テオが乗って、ガルドが直して、今は俺が乗っている銘殻。鋳脈の接続機構は、ガルドが自分の手で取り外した。俺にあれを使わせないために。
ガルドは推進剤系統の最終調整をしていた。ケストレルの脚部パネルを開け、配管の接合部に工具を当てている。革のエプロンが油で汚れ、腰のツールベルトの工具が作業のたびに乾いた音を立てる。左手の中指と薬指には古い火傷の痕があり、指先の感覚が鈍い。それでもガルドの手は正確だった。感覚が鈍い分を、20年以上の経験と知識で補う。配管の振動を指先で読み取り、接合部の微細なずれを検出する。
カイは格納庫の入口で立ち止まった。足の裏から、コンクリートの冷たさが上がってくる。
昨日、自分は「ありがとう」と言った。あの言葉が正しかったのかどうか、今でも分からない。言ってしまってから、ずっと喉の奥に小骨が刺さったような感じが残っている。怒りは消えていない。10年も嘘をつかれていた。それは変わらない。なのに、ありがとうと言った。自分でも、なぜそう言ったのか分からない。
あの男は、俺を守るために嘘をついた。傍にいるために、こんな辺境の集落に残った。理屈では分かる。分かるのに、腹の底のしこりは溶けない。一晩眠っても、朝起きたら同じ重さでそこにあった。だからカイは、こうして格納庫まで足を運んだ。何を言うか決めてきたわけでもないのに。
ガルドの背中が見える。肩幅は広くないが、長年の金属加工で厚みがある。白髪交じりの暗褐色の髪を後ろに無造作に流し、寒いはずの格納庫で首筋に汗が浮いていた。作業に入ると、この男はいつも周りが見えなくなる。
その背中なら、カイは見飽きるほど見てきた。物心ついた頃には、もうそこにあった背中だ。テオが消えてからは、なおさら。整備場でも、飯の支度でも、いつもこの背中が先にいて、カイはその後ろをついて歩いた。
カイはガルドの隣に座った。コンクリートの床は冷たかった。尻が痛い。だが動かなかった。
ガルドはちらりとこちらを見て、すぐ手元に視線を戻した。来たのか、とも、何の用だ、とも言わない。いつものことだ。この男は言葉を惜しむ。
沈黙が落ちた。工具が金属を叩く音と、防水布が風で鳴る音だけが、格納庫を埋めている。
ガルドは工具を動かし続けた。配管の接合部を増し締めし、動力炉の出力テスターを確認する。数値を読み、工具の角度を変え、もう一度締める。一つの接合部を、三度確かめる。昔から変わらない。この手が、テオを戦場に送り出してきたんだ。そう思うと、見ていられなくなって目を逸らした。
カイはケストレルの脚部を見上げた。この機体の関節の癖も、配管がどこで軋むかも、ガルドは全部知っている。テオが乗っていた頃から、ずっとこの手が触れてきたからだ。カイがこの機体に乗れるのも、毎日この男が手を入れてきたからだった。その事実は、嘘をつかれていたことと、何も矛盾しない。だからこそ、厄介だった。
長い沈黙の後、カイが口を開いた。
「怒ってる」
ガルドの手が止まった。工具が配管の上で静止した。
「まだ怒ってる。お前が嘘をついたことに」
「ああ」
それだけだった。言い訳も、なぜそうしたかも、ガルドの口からは出てこない。いつもそうだ。俺はその短さに、何度も腹を立ててきた。
「でも、お前がいなかったら俺はここにいない。それも分かってる」
ガルドは工具を膝に置いた。前を見たまま、こっちを見ない。ケストレルの脚に視線を据えたきり、動かない。その横顔が何を見ているのか、俺には分からなかった。
「許してくれとは言わん」
カイは首を振った。
「許すとか許さないじゃない」
言葉を探した。自分の中にあるものを、正確に言い表す言葉が見つからない。怒りと、それと正反対の何かが、同じ場所で居座っている。膝の上で、カイは無意識に拳を握ったり開いたりしていた。鉄殻の操縦桿を握る時は、考えるより先に体が動く。なのに、こういう時に限って直感は何も教えてくれない。
それでも、言わなければ伝わらない。カイは口の中で言葉を組み立て、組み立て直し、ようやく一つだけ掴んだ。
「お前が何をしたか、全部知った上で、それでも隣にいることを選ぶ。それだけだ」
ガルドの喉が動いた。目が赤くなった。白目の部分に血管が浮き、瞳の奥に水分が溜まっていく。
だが泣かなかった。テオに鋳脈を施した日も、テオが消えた日も、この男が泣くのをカイは見たことがない。なぜ泣かないのか、カイには分からなかった。
カイはガルドの手を見た。
工具で荒れた手。爪の間に染みついた黒い汚れ。火傷の痕が残る中指と薬指。あの手でテオの頸に素子を埋め、あの手でケストレルを直し、あの手で俺の飯を作った。あの手で俺の頭を叩いて、あの手で、何度も壊れた残殻を直してきた。
加害と贖罪が、同じ手の中にある。
その二つを切り離せたら、どんなに楽だろうとカイは思った。この手は許せない、この手は信じられる、と分けられたら。だが、分けられない。父の頸に素子を埋めた指と、カイの頭を叩いた指は、同じ一本だ。憎みきることも、すがりきることもできないまま、カイはただその手を見ていた。喉の奥が、塩を舐めたように苦かった。
カイはガルドの肩を一度だけ叩いた。強くはない。乱暴でもない。ただ、手のひらが肩に触れて、離れた。それだけだった。
ガルドは黙ってカイを見た。目が赤いまま、しかし涙は流れないまま。唇が何か言おうとして、止まった。形にならない言葉が、唇の動きだけで消えた。
二人の間の亀裂は消えていない。たぶん、戻らない。
だが、亀裂を挟んで手を伸ばすことを、二人は選んだ。
ガルドはしばらく動かなかった。それから、何事もなかったように工具を取り上げた。ケストレルの推進剤系統に向き直り、脚部パネルの奥に手を入れる。配管の接合部を指で確かめ、締め具合を見ている。カイは黙って隣に座り続けた。立ち去る気にはなれなかった。
しばらくして、ガルドが言った。
「推進剤の接合部、増し締めが要る。14ミリのレンチを取ってくれ」
いつもの、用件だけの声だった。だがカイには、それがガルドなりの返事のように聞こえた。
カイはツールベルトから14ミリのレンチを取り出し、ガルドに渡した。指先が一瞬だけ触れて、離れる。ガルドの手は氷みたいに冷たかった。格納庫の冬の空気が、金属を冷やし、人の肌を冷やす。
それから二人は、また黙ってケストレルに向き合った。レンチが配管を噛む音。出力テスターの低い唸り。テオが乗って、ガルドが直して、今は俺が乗る。この音の中に、俺たちはいる。




