お前が守りたいのは
港湾区画の暗がりは、潮と錆の匂いがした。
リオンはコンテナの影に体を押し込み、周囲を確認した。検問所の灯りはついているのに、職員の姿はない。荷を担いだ男が二人、誰にも止められずコンテナの間に消えていく。ここは管区で最も統制が緩い区画だとルイは言っていた。物流を止めれば管区が干上がる港だから、軍も見て見ぬふりをするのだと。実際、そのとおりらしかった。
積み上がったコンテナが、防壁のように夜を区切っている。その隙間の路地に水たまりがあって、ブーツの先がそれを踏んだ。排水の匂いが立つ。空気は湿っていて、冬でも潮気を含んでいた。灰域の乾いた空気しか知らないリオンには、肺に張りつくような重さだった。
リオンは暗色の戦闘服を着て、髪を帽子の中に押し込んでいた。灰域の住民に見えるように振る舞っている。姿勢を少し崩し、歩幅を小さくし、地面を見ながら歩く。ルイに教わった灰域の歩き方。背筋を伸ばす癖が抜けず、何度も意識して肩を落とした。ブーツだけがセルヴィス支給品のまま。履き慣れた靴を換える余裕はなかった。足元さえ見られなければ大丈夫だとルイは言ったが、その一点だけが、ずっと気になっていた。
アイリスから受け取った内部文書は、防水布に包んで胸の内ポケットに入れてある。冴覚児童回収計画の更なる証拠。施設の配置図、検査スケジュール、過去3年間の回収児童リスト。これを持ってストーンクロスに戻る。明日の朝、ルイが手配した物流船に乗る。
腰の通信機が振動した。
リオンの体が硬くなった。この通信機を知っている人間は限られている。暗号化された私的回線。周波数を確認して、リオンの背中に冷たいものが走った。
士官学校時代の通信回線。同期生間で共有する暗号鍵を使った、軍の正規通信網を経由しない回線。士官学校を卒業した後も、この回線は残されていた。使う者は殆どいない。だが、暗号鍵は生きている。
リーヴからだった。
リオンは数秒間、通信機を見つめた。応答するべきかどうか。罠の可能性。だが、この回線を使うということは、軍の記録に残らない形での接触を選んだということだ。リーヴが公式に動くなら、追跡部隊を送ればいい。コルヴァスの銘殻を差し向ければ、リオンに逃げる術はない。わざわざ私的回線を使う理由がない。
つまり、これは個人的な接触だ。リーヴ・シェイドという個人が、リオン・アスフォードという個人に話しかけようとしている。
応答した。
「リオン・アスフォード」
「久しぶりだな」
リーヴの声は穏やかだった。士官学校の頃と変わらない、柔らかい声。リオンが入学した時、二つ年上のリーヴはもう学校の伝説だった。最年少で鋳脈を受けた同期、と誰もが言った。成績優秀で、礼儀正しく、教官にも好かれていた。その背中は、いつも少し急いで歩いていた。
しかしリオンは、その穏やかさの内側を一度だけ見たことがある。食堂で配給が一人分足りなかった夜、リーヴは「俺はいい」と笑った。その手だけが、空の皿の縁を強く掴んでいた。あれは、奪われ慣れた人間の笑い方だった。
「この回線を使うということは、正式な通達ではないのですね」
「敬語はやめろ。同期だろう」
短い沈黙。コンテナの向こうで、貨物船の汽笛が鳴った。低い、長い音。夜の港に響いて消える。
「お前が守りたいのは灰域の連中か、それとも、あの操手か」
リオンの息が止まった。
あの操手。カイ・セヴァルのことだ。リーヴがカイの存在を把握していることは、驚きではない。コルヴァスの隊長として、灰域の戦力は当然調査しているだろう。だが、なぜリーヴは「守りたいのは」と聞いた。戦力の話なら、強さを聞けばいい。守りたいか、という問い方には、別の意味が混じっている。その意味を掴みかけて、リオンは口の中が渇いていくのを感じた。
カイの顔が浮かんだ。格納庫の前で「帰って来い」と言った時の、あの目だ。暗い灰色の、まばたきの少ない目。普段はろくに喋らない少年が、あの一言だけは引かなかった。
続けて、灰域の人々の顔が浮かんだ。ゲオルグの皺だらけの手。タリアの明るい茶色の目。ロイドの険しい顔。クレアの曲がった左手の指。マーサの穏やかな微笑み。半年前なら、敵側の集落の名簿でしかなかった顔ぶれだった。
両方だ、と言いかけて、やめた。士官学校の頃から、リーヴにそう答えると、決まって次の一手で逃げ場を塞がれた。リオンは別の言葉を探して、結局、問いを問いで返すしかなかった。
「あなたは何を守っている、リーヴ」
リオンは質問を返した。声が震えないように注意した。唇を噛み、呼吸を整え、通信機に向かって言った。
通信の向こうで、沈黙が続いた。ポートガードの風が通信機のマイクに当たり、微かなノイズが走る。コンテナの隙間から見える海は黒く、波の音が低く響いている。
「俺はセルヴィスだ。セルヴィスが居場所をくれた」
その「居場所」という一語を、リーヴは噛むように言った。穏やかな声のはずなのに、語尾が少しだけ遅れる。何かを掴み直すような、短い間があった。
「その居場所は、あなたの体を壊している」
リオンは言った。声が震えた。抑えきれなかった。
リーヴの左手の指先が白くなっていることを、リオンは知っている。士官学校の頃、握手をしたリーヴの手は温かかった。卒業の前に一度、リオンは食堂でそれを見た。リーヴが箸を取り落とし、拾い、また落とした。何でもないという顔で「最近、よく落とすんだ」と笑った。あの時はまだ、笑い話のつもりだったのだろう。今はもう、笑えない速さで進んでいるはずだ。
「鋳脈の代償は俺が選んだことだ」
「選んだ。本当にそう思っているの」
「リオン」
「14歳の子供に、選ぶ力があったの。灰域の孤児で、身寄りがなくて、セルヴィスだけが居場所だった子供に。あなたは選んだんじゃない。それしかなかったの」
通信が切れた。
リーヴが切ったのか。電波が落ちたのか。分からなかった。リオンは通信機を耳から離せなかった。
リオンは通信機を握りしめたまま、コンテナの壁に背中を預けた。冷たい鉄の感触が、戦闘服を通じて背中に伝わる。言い負かしたかったわけじゃない。ただ、リーヴに本当のことを認めさせたかった。それが正しいことなのか、自分でもよく分からないまま、口が勝手に動いていた。
夜の港湾区画に、貨物船の汽笛が再び響いた。遠い音。海風が潮の匂いを運んでくる。冷えた手の中で、通信機がもう一度震えることはなかった。コンテナの間を猫が一匹走り抜けて、暗がりに消えた。
リオンは額に手を当てた。
リーヴの声が頭から離れない。「俺はセルヴィスだ」という言葉の奥で、何かが震えていた。確信のある人間は、あんなふうに言わない。あれは、自分に言い聞かせているように聞こえた。毎朝、目が覚めるたびに繰り返しているような声で。俺はセルヴィスだ。俺の居場所はここだ。俺の選択は正しかった。
リオンは立ち上がった。明日の朝、この港を発つ。証拠を持ってストーンクロスに戻る。それだけだ。
歩き出して、足が止まった。もう一度だけ、通信機の周波数を確かめた。着信は、もう来なかった。




