鷹嗣の真相
ネイサン・グレイは、ストーンクロスの北側の廃墟に間借りしていた。
旧世界の集合住宅の2階。壁には亀裂が走り、窓枠にガラスはない。代わりに防水布が張られ、風が吹くたびにばたばたと鳴る。部屋の隅にネイサンの荷物が置かれていた。フード付きのコートと、空の酒瓶が数本。それだけだった。
カイはその部屋の入口に立っていた。ガルドが後ろにいる。室内は外と変わらないほど冷えていて、防水布の隙間から入る風が、足元を撫でていく。
これが、かつてグランヴェルトのエース操手と呼ばれた男の、持ち物の全部か。カイは部屋の貧しさと、その名前を、うまく結びつけられずにいた。
ネイサンは窓際に座っていた。防水布の隙間から差し込む冬の光が、彼の痩けた頬を照らしている。手が震えていた。いつものように。右手は特に顕著で、コップの中の水が僅かに揺れ、水面に小さな波紋が立っている。黒髪は手入れされておらず、肩にかかる長さまで伸びていた。右目は常に半開きで、瞳孔の反応が鈍い。右目の視野は上部の3分の1が欠損している。
それが鋳脈の代償だ。味覚も、視野も、手の安定も、少しずつ持っていかれる。ネイサンはまだ生きているだけ、ましな方なのだとカイは聞いていた。波紋の立ち続けるコップを見ていると、自分の右手まで強張ってくる気がした。
「鋳脈者はどうやって選ばれるんだ」
カイは単刀直入に聞いた。ガルドが後ろで、小さく息を吐いた。
ネイサンの半開きの右目が、カイを見た。左目だけが、まだ鋭い光を保っている。残った視野の中で、カイの顔を捉えている。
「適合率だ。鋳脈のリレー素子を受け入れられるかどうか。手術の成功率は今で約78パーセント。失敗すれば重度の感覚障害か植物状態。成功しても適合率は個人差が大きい。フィードバックの強度を制御できない者もいる」
ネイサンは水を一口飲んだ。震える手でコップを置く。コップがテーブルの端にぶつかり、乾いた音が響いた。
「で、その適合率が最も高いのは」
カイの背筋を冷たいものが伝った。答えは、たぶん分かっている。それでも訊かずにはいられなかった。
「冴覚の素養を持つ人間だ」
ネイサンの声に抑揚はなかった。
「冴覚持ちは通常の人間の約1.5倍の適合率を示す。脳の情報処理能力が高いから、リレー素子のフィードバックを受け入れやすい。統治機構体はそれを知っている。セルヴィスもグランヴェルトも。冴覚持ちの人間は、鋳脈の最良の素材だ。素材。部品。そういう言葉で呼ばれる」
「つまり、灰域の冴覚持ちの子供を保護しようとしているのは」
「鋳脈の素材を確保するためだ。保護という名の選別。教育という名の訓練。志願という名の強制。灰域の孤児は拒否する力を持たない。誰がそれを拒否権と呼ぶ」
ネイサンはコップを手で回した。震える手で。水面の波紋が揺れ続ける。
「リーヴ・シェイドもそうだった」
カイの息が止まった。その名前は、ここで出てくるはずのないものだった。戦場で何度もぶつかった敵の名が、ネイサンの口から、回収された子供の話として語られている。
「あいつは灰域で生まれた。小さな集落で。セルヴィスの汎殻が集落を潰した時、回収された子供の一人だ。保護プログラムに入れられ、冴覚の素養を見出されて、訓練を受けて、14歳で鋳脈を志願した。志願。名目上はな」
「名目上」
「灰域の孤児で、身寄りがなくて、セルヴィスだけが居場所の子供に、拒否する力があったと思うか。鋳脈を受ければ強くなれる。強くなれば必要とされる。必要とされれば捨てられない。14歳の子供にとって、それ以外の選択肢が見えたか」
カイは拳を握った。リーヴ・シェイドの顔が浮かんだ。穏やかな微笑みの奥の、獣のような鋭さ。コックピットの中でだけ完全な人間になれると言わんばかりの、あの戦い方。
あの男は、自分と同じ灰域の出身だった。同じ冴覚を持っていた。
違ったのは、誰が側にいたかだけだ。
リーヴの側には、セルヴィスの保護施設があった。白い壁と、清潔なベッドと、「お前は特別だ」という言葉があった。
カイの側には、ラストヘイムがあった。冴覚の検査機械の代わりに、整備場の油の匂いと、肩を叩くテオの手があった。
カイはガルドを振り返った。ガルドは部屋の入口に立ったまま、壁に肩を預けていた。煙草の箱をポケットから出しかけて、やめた。その手が、わずかに震えている。ネイサンの手の震えとは、違う震え方だった。
「親父がいなかったら、俺もリーヴと同じだったのか」
ガルドの目が、カイを見た。いつもの軽口も、煙の向こうに逃げる視線もない。目尻の皺が深く刻まれ、口元が一文字に結ばれていた。
「テオはそれが怖かったから、消えた」
ガルドの声は低く、掠れていた。
「お前をグランヴェルトにもセルヴィスにも渡さないために。鋼城の設計データを持ち出したのは鋼城を止めるためだが、灰域に隠れたのはお前のためだ。グランヴェルトが灰域まで手を伸ばすのは難しい。セルヴィスの目も届きにくい。ラストヘイムは灰域の中でも辺境だ。そこに、お前を隠した」
「だが、グランヴェルトがデータの返還を迫った」
「ああ。テオは取引をした。データの隠し場所と引き換えに、お前とラストヘイムの安全を要求した。グランヴェルトがそれを守ったかどうかは分からん。だがテオは、その取引を信じて消えた」
カイの手が震えた。怒りではなかった。
父は、これを一人で抱えて消えたのか。自分には何も言わずに。テオが朝にいなくなった日のことを、カイはまだ覚えている。整備場の灯りが点いたまま、工具だけがいつもの場所に揃えて置かれていた。
ネイサンは二人のやり取りを黙って見ていた。震える手で額を撫で、窓の外を見た。灰色の空。灰域の冬の空は、いつもこの色だ。
「お前の親父がどういう人間だったか、俺は知らない。だが、あの時代に冴覚持ちの子供を統治機構体から隠し通すのは、並大抵のことじゃない。命を懸ける価値があると思ったんだろう。あんたのことを」
ネイサンの最後の言葉は、カイにではなくガルドに向けられていた。ガルドは何も答えなかった。煙草の箱を、ゆっくりとポケットに戻した。それきり、動かなかった。
カイはガルドに向き直った。
怒りがあった。まだある。嘘をつかれていた怒りは消えていない。本当なら、なぜ黙っていたと詰め寄りたかった。10年も騙していたガルドに、そう言ってやるつもりだった。それなのに、口から出たのは別の言葉だった。
「ありがとう」
言ってしまってから、自分でも驚いた。詰め寄る言葉より先に、こっちが出てきた。
ガルドの目が一瞬だけ揺れた。暗い茶色の瞳の奥で、何かが動いた。それが何なのか、カイには分からなかった。
ガルドは口を開きかけて、閉じた。結局、何も言わなかった。




