ボルトとコンラッドの酒
ストーンクロスの酒場は、旧世界のバーの残骸を再利用して建てられていた。
カウンターだけが当時の原形を留めている。黒檀の天板は何十年分の酒と油で磨かれ、鈍い光沢を放っていた。天板の端には焼け焦げた痕があり、大崩落の時に火が回ったのだろう。壁には廃材を打ち付けた棚が並び、中身の違う瓶が雑然と並んでいる。透き通ったものから、濁って底に澱の沈んだものまで。栓を抜いた一本から、穀物を焦がしたような匂いが立っていた。
カイはカウンターの隅に座り、水を飲んでいた。酒場に来たのはボルトに呼ばれたからで、飲む気はなかった。17歳のカイに酒を出す店主もいない。木のコップはどこかで縁が欠けていて、唇に当たるたびに気になった。なぜ自分が呼ばれたのかも、よく分かっていない。整備の手は朝のうちに止められて、油の匂いだけが指に残っている。爪の隙間の黒い汚れは、いくら洗っても落ちきらない。それを眺めながら、カイは始まらない話を待っていた。
連合の結成から2日後の昼下がり。コンラッドがアイアンウェルから到着した。
護衛の残殻2機を従えている。装甲の継ぎ目が、寄せ集めのうちの機体と違ってきれいに揃っていた。自前で鉄を打てる集落の機体は、こうも顔つきが違う。
コンラッドは小柄な男だった。カイより頭半分は低く、白髪混じりの髪を後ろに撫でつけている。穏やかな額の下で、目だけがしきりにボルトとバートンを行き来していた。右手の薬指に、古びた指輪がひとつ。
二人は古い知り合いらしかった。だが、テーブルを挟んで向かい合う空気は、旧友の再会には見えなかった。
「戦わなければ浄化される」
ボルトが言った。太い指で杯を持ち上げ、中身を一息に干す。杯がテーブルに戻る音が、静かな酒場に響いた。
「戦えば、住民が死ぬ。ブライドを見ろ」
コンラッドが返した。杯には手をつけていない。指輪をはめた右手をテーブルの上に置き、ボルトを見据えている。
「危険に晒さない方法があるなら聞かせてくれ。セルヴィスと交渉するか。あいつらにとって灰域は統制できない不安定要素だ。交渉の余地なんてない」
「交渉の余地がないとは言っていない。バートンにはクレスタとの繋がりがある。外圧をかけるという手段もある。武器商人のヒューゴも使える。時間はかかるが、戦闘以外の選択肢を全て潰してから戦うべきだ」
「時間。時間か」
ボルトが杯を置いた。顎を引き、コンラッドを見下ろす。小さいが鋭い茶色の瞳が、コンラッドを射抜いた。
「時間をかけている間に、何人死ぬ。ブライドの120人は既に保護という名の収容をされた。リッジウェイの住民が次だ。その次はどこだ。時間をかけろと言うのは、その間に潰される集落を見殺しにしろと言うのと同じだ」
ボルトの声が大きくなった。酒場の他の客が振り返る。カウンターの店主が手を止め、二人を見た。カイは黙って水の杯を握ったまま、二人のやり取りを聞いていた。
「俺は見殺しにしろとは言っていない。順序の問題だ」
コンラッドの声も硬くなった。穏やかだった眉が、わずかに寄る。
「お前の鉄鉱石がなければ、残殻の補修部品が作れない。部品がなければ戦えない。戦えなければ、浄化される。それでも出し渋るのか」
「出し渋っているんじゃない。ボルト、お前に分かるか。アイアンウェルには700人の住民がいる。子供もいる。年寄りもいる。あの鉱石はうちの経済の根幹だ。周辺集落との交易で食糧を得ているのは、鉄鉱石があるからだ。それを連合に供出すれば、集落の独立性が失われる。お前が守れなかった時、うちの住民は飯も食えなくなる」
「守れなかった時の話をするな。守るために連合を組んでいるんだ」
「守り切れなかった時、誰がうちの住民に詫びる。お前か。俺か」
二人の間の空気が張り詰めた。
カイはカウンターから動かず、二人を交互に見た。口を挟む場面じゃない。だが、どっちが正しいのか、いくら聞いても決められなかった。手の中で、コップの水がぬるくなっていた。窓の外の空は灰色に垂れこめて、いつもより低い。ボルトの声が大きくなるたびに、棚の瓶が小さく鳴った。
バートンが酒場の扉を開けて入ってきた。コートの肩に雪の結晶が残っている。外は雪が降り始めていた。
「二人とも、声が大きい。酒場の外まで聞こえている」
バートンはカウンターで酒を受け取り、二人のテーブルに近づいた。椅子を引き、二人の間に座る。仕立てのいい上着が、灰域の酒場の煤けた空気から浮いていた。バートンは襟も払わず、酒の杯だけを見ていた。
「二人とも、座れ。喧嘩ならあとでいくらでもできる」
バートンは杯を回しながら言った。二人がしぶしぶ腰を下ろすのを待ってから、続ける。
「ボルトの戦闘力とコンラッドの資源が合わされば、灰域は持ちこたえられる。どちらか一方では無理だ。ボルト、お前がどれだけ強くても、部品がなければ残殻は動かない。コンラッド、お前の鉄鉱石がどれだけあっても、守る兵力がなければセルヴィスに鋼ごと持っていかれる」
「バートン。お前はいつも両方を立てようとする」
ボルトが鼻で笑った。茶色の瞳に、苛立ちより面白がる色がある。
「両方立てなきゃ連合は組めん」
バートンは杯を傾けた。
「どっちか切ったら、切られた方が抜ける。それだけのことだ」
そう言って、コンラッドの方を向いた。
「コンラッド。資源の供出は強制しない。それは約束した。だが、防衛のための部品供給については、取り決めが要る。対価を設定しよう。ストーンクロスの食糧備蓄とアイアンウェルの鉄鉱石の交換比率を、戦時用に改定する。平時より有利な比率で、君の集落に食糧を優先配分する。君の集落の経済は守る。その上で、連携する」
コンラッドは黙って考えていた。親指が、あの結婚指輪をゆっくりと回している。その指が止まらないあいだ、誰も口を開かなかった。
「……分かった。交換比率を提示してくれ。合理的であれば、受け入れる」
そう言って、コンラッドは小さく息を吐いた。指輪を回す親指は、まだ動いている。
ボルトが新しい酒を注いだ。自分の杯と、コンラッドの杯と、バートンの杯。3つの杯が、テーブルの上に並ぶ。
「俺は商売の話はさっぱりだ。バートン、お前とコンラッドで詰めてくれ。俺は戦場で結果を出す。それが俺の仕事だ」
「任せろ」
3つの杯が、ぎこちなく合わさった。酒がこぼれた。テーブルの地図に染みが落ちたが、誰も気にしなかった。
カイは杯と杯がぶつかる音を聞いた。地図の上で、酒の染みがじわりと広がる。さっきまで本気で睨み合っていた三人が、いま黙って酒を干している。大人はこういう茶番のあとで、平気で握手ができるらしい。自分には、まだ無理だ。
ボルトが酒を飲み干し、杯をテーブルに置いた。立ち上がりかけて、止まった。コンラッドを見下ろす。
「だが、一つだけ言っておく」
コンラッドが見上げた。小柄な男と大柄な男の視線が交わる。
「灰域に生きている人間は、灰域の人間だ。それだけは誰にも否定させない」
コンラッドは頷いた。指輪を回す手が、止まった。
ボルトの大きな手が差し出された。コンラッドの、鉄鉱石で荒れた手がそれを握り返す。それきり二人とも、何も言わなかった。




