|灰域《アッシュランド》集落連合
バートンの執務室は、旧世界の銀行の金庫室を改装したものだった。
壁のコンクリートは剥き出しで、補修の木材が継ぎ目を埋めている。天井の蛍光灯は1本が切れ、部屋の隅に影が溜まっていた。当時のまま残された鉄扉には、無数の引っかき傷がある。大崩落の時、誰かがこじ開けようとした痕だ。鉄の扉は、もう何も守っていない。
カイはその影の中に立っていた。壁に背中を預け、腕を組んで、テーブルを囲む大人たちのやり取りを見ている。
テーブルの上には灰域の地図が広げられていた。手描きだ。バートンが自ら測量し、何枚もの紙を繋ぎ合わせて作ったものだとカイは聞いている。ストーンクロス、アイアンウェル、ラストヘイム。3つの集落が、鉛筆で描かれた三角形の頂点に位置している。三角形の内側には、小さな集落の名がいくつも書き込まれ、その一つが、別のインクで線を引いて消されていた。
バートンが椅子の背もたれに体を預け、通信機に向かって話しかける。右手の小指がない手で、スイッチを操作した。
「コンラッド。結論を出そう」
通信機越しのコンラッドの声は、距離相応にざらついていた。タリアの通信網は灰域にしては上出来だが、暗号化の負荷で音質は犠牲になる。ノイズの向こうの声は、遠い。ストーンクロスからアイアンウェルまで、残殻を駆っても着くのは夕方だ。人の足では、灰域を何日も越えていくことになる。
「結論を急ぐな、バートン。灰域集落連合という名前を口にした瞬間、我々は統治機構体の標的になる。今でも個別に狙われているが、連合を名乗れば組織的な反乱勢力と見なされる。今まで以上に苛烈な攻撃を受ける」
「既に標的だ」
ボルトが口を挟む。テーブルに片手をつき、地図を見下ろしている。186センチの大柄な体が蛍光灯の光を遮り、地図の東半分に影を落とした。坊主頭の頭頂部にある刀傷が、蛍光灯の下で白く光る。腕に巻いた鉄殻部品のバンドが、動くたびに乾いた音を立てる。
「セルヴィスは東の小集落から順に潰している。ストーンクロスの東方40キロにあったブライド集落は先月浄化された。住民120人が保護の名目で収容された。次はリッジウェイだ。200キロ離れた場所の話じゃない。すぐ隣の話だ。名乗ろうが名乗るまいが、あいつらは来る。だったら先に旗を立てろ。旗のない軍隊は、ただの暴徒だ」
コンラッドが黙った。通信機のノイズだけが、数秒間、部屋を満たす。カイはその沈黙を聞いていた。コンラッドはアイアンウェルの700人を預かっている。一つの返事で、700人の行き先が変わる。ノイズだけが、なかなか途切れなかった。
「ボルトの言い分は分かる。分かっているんだ。だが連合を名乗れば、アイアンウェルの鉄鉱石を連合に供出する流れになる。うちの集落の自主性が損なわれる。あの鉄鉱石は、アイアンウェルの経済の根幹だ。周辺集落との交易で食糧を得ているのは、鉄鉱石があるからだ。それを連合に供出すれば、アイアンウェルは自力で食糧を確保する手段を失う」
バートンが指で地図のアイアンウェルの位置を叩く。旧世界の鉱山跡地の近くに描かれた小さな円。灰域唯一の金属資源産出拠点。残殻の補修部品を自前で鋳造できる、灰域で最も戦略的価値の高い場所。
「資源は各集落の管理下に置く。供出は任意だ。強制はしない。ただし防衛は共同で行う」
バートンは椅子から身を起こした。地図に両手をつき、通信機に向かって語りかける。声が僅かに低くなる。カイはその変化に気づいた。交渉の声だ。
「コンラッド。ストーンクロスが攻撃を受けた時、アイアンウェルが動かなければ、次はアイアンウェルが単独で潰される。逆もまた然りだ。各個撃破されるのを待つか、連携して持ちこたえるか。選択肢は二つしかない。防衛の共同からまず始めよう。資源供出の話は、後でいい」
また沈黙。カイは腕を組んだまま、通信機を見つめた。
「……まずは防衛の共同からだ。資源供出は、必要が生じた時に改めて協議する。だが条件がある。連合の決定は3集落の合議制にしてくれ。ストーンクロスの独断で動かれては困る」
「合議制で構わない。緊急時の軍事判断のみ、ボルトに一任する。それ以外は合議だ」
「ボルトに一任、か」
コンラッドの声に、渋りがあった。それが何への渋りなのか、通信機越しのカイには読み切れない。
「それでいい」
バートンが頷く。安堵も勝利もない顔で、すぐに地図へ目を戻した。
「連合の名称は灰域集落連合。代表はストーンクロスが務める。軍事統括はボルト。資源管理はコンラッド。最初の合同防衛会議を来週行う。コンラッド、ストーンクロスまで来られるか」
「護衛をつけて行く。残殻2機。うちの鋳造部品で組んだ機体だ」
「待っている」
通信が切れた。ノイズが消え、部屋に静寂が戻った。
バートンは通信機のスイッチを落とし、椅子の背にもたれる。目を閉じ、額に手を当てた。旧クレスタのスーツに似た仕立ての上着の肩が、わずかに下がる。
「合意を取るのは、戦闘より消耗する」
ボルトが鼻を鳴らした。
「コンラッドは臆病じゃない。慎重なだけだ。妻子を大崩落で亡くして、それでも700人を生かしてきた男だ。渋るのは当然だろう。……分からなくはない」
バートンが目を開け、カイを見る。奥二重の目は、普段は表情が読みにくい。だが今は、その目がまっすぐカイに向いていた。
「カイ。君はずっと黙っていたな」
「俺に言えることはない。政治は分からない」
「政治が分からなくても、自分の集落のことは分かるだろう。ラストヘイムの声が、この連合には必要だ。ゲオルグに伝えてくれないか」
カイは地図の上のラストヘイムに目を落とす。3つの集落の中で最も小さい点。人口200人。ゲオルグがいて、タリアがいて、クレアがいる。生まれて、育って、父が消えて、ガルドと暮らした。その点が、いま戦の地図の頂点の一つになっている。
「ゲオルグに伝える。ラストヘイムも連合に入ると」
「ゲオルグは賛成するかね」
「分からない。でも、聞いてはくれる。あの人は、まず座れと言う。それから考える」
バートンは小さく笑った。疲れた笑みだ。それでも、椅子に座り直す背筋は伸びていた。
「大人の仕事は大変だろう」
「大人の仕事は大変だな」
カイは素直にそう思った。さっきの一言で合意が崩れていたら、来週ストーンクロスに来るのはコンラッドではなく、コルヴァスの汎殻だったかもしれない。
「お前も大人の側にいるんだよ、カイ」
カイは何も返せなかった。17歳の自分が大人の側だと言われても、実感はない。ケストレルの操縦桿なら握れる。だが、このテーブルの上で交わされる言葉には、引金のつけ方が分からない。
カイは壁から背を離し、出口へ向かう。
鉛筆で引かれたばかりの三角形が、目の端に残った。線はまだ薄い。
ゲオルグに、何と言って伝えよう。歩きながら、カイはそれを考えていた。




