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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio Flint
鉄錆の邂逅

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132/144

手を伸ばす

格納庫の空気は、油と金属粉の匂いで満ちていた。


 ストーンクロスの格納庫は旧世界の立体駐車場を改造したもので、天井が高く、壁面に鉄骨が剥き出しになっている。コンクリートの床には油の染みが何層にも重なり、黒い地図のような模様を描いていた。作業灯の黄色い光が、格納庫の奥を照らしている。その光の中に、ケストレルが佇んでいた。


 漆黒の装甲に工具の光が反射し、関節部の暗い金色が鈍く光る。全高10.4メートル。アルマナック・シリーズNo.46。テオ・セヴァルが乗り、ガルド・ヴェッセンが整備し、今はカイの機体になった銘殻(めいかく)鋳脈(ちゅうみゃく)接続機構は除去されている。ガルドが自ら設計した機構を、自ら取り外した。息子に鋳脈(ちゅうみゃく)を使わせないために。


 ガルドは推進剤系統の最終調整をしていた。ケストレルの脚部パネルを開け、配管の接合部に工具を当てている。革のエプロンが油で汚れ、腰のツールベルトの工具が作業のたびに乾いた音を立てる。左手の中指と薬指には古い火傷の痕があり、指先の感覚が鈍い。それでもガルドの手は正確だった。感覚が鈍い分を、20年以上の経験と知識で補う。配管の振動を指先で読み取り、接合部の微細なずれを検出する。


 カイは格納庫の入口で立ち止まった。


 昨日、カイは「ありがとう」と言った。あの言葉が正しかったのかどうか、今でも分からない。感謝と怒りが同時に存在することを、カイはまだ上手く処理できない。怒りは消えていない。10年間嘘をつかれていた事実は変わらない。だが、その嘘の下にあったものも見えた。カイを守るために嘘をつき、カイの傍にいるために灰域(アッシュランド)に残り、カイの機体を整備し続けた男の10年間。


 ガルドの背中が見える。作業着の背中。肩幅は広くないが、長年の金属加工で厚みがある。白髪交じりの暗褐色の髪を後ろに無造作に流し、首筋に汗が浮いている。冬の格納庫は寒いが、作業に集中すると体は温まる。あの背中を、カイは10年間見てきた。テオが消えた後、最も長い時間、最も近くにあった大人の背中。


 カイはガルドの隣に座った。コンクリートの床は冷たかった。尻が痛い。だが動かなかった。


 沈黙が落ちた。


 ガルドは工具を動かし続けた。配管の接合部を増し締めし、動力炉の出力テスターを確認する。数値を読み、工具の角度を変え、もう一度締める。一つの接合部に対して3回確認する。ガルドの整備は執拗なほど丁寧だ。テオの銘殻(めいかく)を整備していた頃から変わらない習慣だろう。この丁寧さが、テオを生かし続けた。そしてテオを戦場に送り出し続けた。


 カイはケストレルの脚部を見上げた。銘殻(めいかく)の関節は残殻(ざんかく)とは精度が違う。アルマナック・フレームの恩恵で、31年前の機体でありながら関節の公差は微小だ。マイクロメートル単位の加工精度。現在の冶金技術では再現できない旧世界の高純度合金。ガルドはこの機体を知り尽くしている。全ての関節の癖、全ての配管の経年変化、全てのボルトの締め具合。テオが乗っていた頃から、ガルドの手がこの機体に触れてきた。


 長い沈黙の後、カイが口を開いた。


「怒ってる」


 ガルドの手が止まった。工具が配管の上で静止した。


「まだ怒ってる。お前が嘘をついたことに」


「ああ」


 ガルドの声は短かった。弁解も弁明もない。一言だけ。ガルドは弁解が嫌いだ。間違ったことは間違ったと認める。だが、なぜそうしたかを説明することは、弁解と自己弁護の境界が曖昧になるから、避ける。そういう男だった。


「でも、お前がいなかったら俺はここにいない。それも分かってる」


 ガルドは工具を膝の上に置いた。前を見たまま、カイの方を見なかった。ケストレルの脚部装甲を見つめている。その装甲の向こうに、何が見えているのか。テオの姿か。それとも、自分の手でテオに鋳脈(ちゅうみゃく)を施した日の記憶か。


「許してくれとは言わん」


 カイは首を振った。


「許すとか許さないじゃない」


 言葉を探した。自分の中にあるものを、正確に言い表す言葉が見つからない。怒りがある。感謝がある。失望がある。信頼がある。その四つが矛盾せずに同居している。鉄殻(てっかく)の操縦桿を握る時は直感で動けるのに、言葉にする時は直感が働かない。


「お前が何をしたか、全部知った上で、それでも隣にいることを選ぶ。それだけだ」


 ガルドの喉が動いた。目が赤くなった。白目の部分に血管が浮き、瞳の奥に水分が溜まっていく。


 だが泣かなかった。ガルド・ヴェッセンは泣かない。技匠(ぎしょう)は戦場で泣かない。20年以上前にテオに鋳脈(ちゅうみゃく)を施した日も、テオの神経が少しずつ壊れていくのを最も近くで見た日々も、テオが消えた日も、カイに嘘をつき続けた10年間も。この男は泣くことを自分に許していない。泣けば、自分を許すことになるから。ガルドは自分を許す気がない。


 カイはガルドの手を見た。


 工具で荒れた手。爪の間に染みついた黒い汚れ。火傷の痕が残る中指と薬指。あの手でリレー素子を設計し、あの手でテオの頸椎に素子を埋め込み、あの手でケストレルを整備し、あの手でカイの食事を作り、あの手でカイが壊した残殻(ざんかく)を何度も何度も直した。あの手で煙草を咥え、あの手で酒を注ぎ、あの手でカイの頭を叩いた。


 加害と贖罪が、同じ手の中にある。


 カイはガルドの肩を一度だけ叩いた。強くはない。乱暴でもない。ただ、手のひらが肩に触れて、離れた。それだけの動作。言葉にできないものを、体で伝える。カイにはそれしかできなかった。


 ガルドは黙ってカイを見た。目が赤いまま、しかし涙は流れないまま。唇が何か言おうとして、止まった。形にならない言葉が、唇の動きだけで消えた。


 二人の間の亀裂は消えていない。


 亀裂は、おそらく消えない。カイがガルドの過去を全て知った以上、何も知らなかった頃の関係には戻れない。父に鋳脈(ちゅうみゃく)を施し、父を戦場に送り出し、父の消失に加担した男。その男が、自分を育てた。その矛盾を抱えたまま、隣にいることを選ぶ。それが、カイの出した答えだった。


 だが、亀裂を挟んで手を伸ばすことを、二人は選んだ。


 ガルドが工具を取り上げた。ケストレルの推進剤系統に向き直る。カイは黙って隣に座り続けた。しばらくして、ガルドが言った。


「推進剤の接合部、増し締めが要る。14ミリのレンチを取ってくれ」


 カイはツールベルトから14ミリのレンチを取り出し、ガルドに渡した。指先が触れた。ガルドの手は冷たかった。格納庫の冬の空気が、金属を冷やし、人の肌を冷やす。だがその冷たさの中に、確かに脈を打つ温度があった。


 二人は黙って、ケストレルの整備を続けた。言葉はない。だが二人の手は同じ機体に触れている。テオが乗り、ガルドが整備し、今はカイが乗る機体。三人の時間が重なる場所。

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