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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio Flint
折れた天秤

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鷹嗣の真相

ネイサン・グレイは、ストーンクロスの北側の廃墟に間借りしていた。


 旧世界の集合住宅の2階。壁には亀裂が走り、窓枠にガラスはない。代わりに防水布が張られ、風が吹くたびにばたばたと鳴る。部屋の隅にネイサンの荷物が置かれていた。フード付きのコートと、空の酒瓶が数本。それだけ。36歳の男の全財産が、コートと空き瓶だけ。かつてグランヴェルトのエース操手(そうしゅ)だった男の、今の姿がこれだった。


 カイはその部屋の入口に立っていた。ガルドが後ろにいる。


 ネイサンは窓際に座っていた。防水布の隙間から差し込む冬の光が、彼の痩けた頬を照らしている。手が震えていた。いつものように。右手は特に顕著で、コップの中の水が僅かに揺れ、水面に小さな波紋が立っている。黒髪は手入れされておらず、肩にかかる長さまで伸びていた。右目は常に半開きで、瞳孔の反応が鈍い。右目の視野は上部の3分の1が欠損している。


 それが鋳脈(ちゅうみゃく)の代償だった。21歳で受けて、36歳の今。15年間で味覚と視野と手の安定を奪われた。


鋳脈(ちゅうみゃく)者はどうやって選ばれるんだ」


 カイは単刀直入に聞いた。回りくどい聞き方はカイの性分ではない。


 ネイサンの半開きの右目が、カイを見た。左目だけが、まだ鋭い光を保っている。残った視野の中で、カイの顔を捉えている。


「適合率だ。鋳脈(ちゅうみゃく)のリレー素子を受け入れられるかどうか。手術の成功率は今で約78パーセント。失敗すれば重度の感覚障害か植物状態。成功しても適合率は個人差が大きい。フィードバックの強度を制御できない者もいる」


 ネイサンは水を一口飲んだ。震える手でコップを置く。コップがテーブルの端にぶつかり、乾いた音が響いた。


「で、その適合率が最も高いのは」


 カイの背筋に冷たいものが走った。答えが分かっていた。聞く前から分かっていた。だが確認しなければならなかった。


冴覚(さいかく)の素養を持つ人間だ」


 ネイサンの声は淡々としていた。自嘲の色もなく、怒りの色もなく。かつて「天才」と呼ばれた操手(そうしゅ)が、自分の体で支払った代償について、事実を並べるように話す。


冴覚(さいかく)持ちは通常の人間の約1.5倍の適合率を示す。脳の情報処理能力が高いから、リレー素子のフィードバックを受け入れやすい。統治機構体(とうちきこうたい)はそれを知っている。セルヴィスもグランヴェルトも。冴覚(さいかく)持ちの人間は、鋳脈(ちゅうみゃく)の最良の素材だ。素材。部品。そういう言葉で呼ばれる」


「つまり、灰域(アッシュランド)冴覚(さいかく)持ちの子供を保護しようとしているのは」


鋳脈(ちゅうみゃく)の素材を確保するためだ。保護という名の選別。教育という名の訓練。志願という名の強制。灰域(アッシュランド)の孤児は拒否する力を持たない。誰がそれを拒否権と呼ぶ」


 ネイサンはコップを手で回した。震える手で。水面の波紋が揺れ続ける。


「リーヴ・シェイドもそうだった」


 カイの息が止まった。


「あいつは灰域(アッシュランド)で生まれた。小さな集落で。セルヴィスの汎殻(はんかく)が集落を潰した時、回収された子供の一人だ。保護プログラムに入れられ、冴覚(さいかく)の素養を見出されて、訓練を受けて、14歳で鋳脈(ちゅうみゃく)を志願した。志願。名目上はな」


「名目上」


灰域(アッシュランド)の孤児で、身寄りがなくて、セルヴィスだけが居場所の子供に、拒否する力があったと思うか。鋳脈(ちゅうみゃく)を受ければ強くなれる。強くなれば必要とされる。必要とされれば捨てられない。14歳の子供にとって、それ以外の選択肢が見えたか」


 カイは拳を握った。リーヴ・シェイドの顔を思い出した。穏やかな微笑みと、その奥にある獣のような鋭さ。銀灰色の髪と琥珀色の瞳。遊肢(ゆうし)4基を展開して残殻(ざんかく)を一瞬で行動不能にした、あの圧倒的な力。コックピットの中でだけ完全な人間になれると言わんばかりの、あの戦い方。


 あの男は、自分と同じ灰域(アッシュランド)の出身だった。同じ冴覚(さいかく)を持っていた。


 違ったのは、誰が側にいたかだけだ。


 リーヴの側には、セルヴィスの保護施設があった。白い壁と、清潔なベッドと、温かい食事と、冴覚(さいかく)検査の機械と、「お前は特別だ」という言葉があった。


 カイの側には、ラストヘイムがあった。ゲオルグと、タリアと、クレアと、マーサと、そしてテオがいた。テオが消えた後は、ガルドがいた。


 カイはガルドを振り返った。ガルドは部屋の入口に立ったまま、壁に肩を預けていた。煙草の箱をポケットから出しかけて、やめた。手が、わずかに震えている。ネイサンの手の震えとは違う。これは罪の震えだ。


「親父がいなかったら、俺もリーヴと同じだったのか」


 ガルドの目が、カイを見た。飄々とした普段の顔はなかった。皮肉混じりの軽口も、煙草の煙の向こうに隠れる視線もない。そこにあるのは、10年間隠し続けてきたものが露わになった、疲弊した男の表情だった。目尻の皺が深く刻まれ、口元が一文字に結ばれている。


「テオはそれが怖かったから、消えた」


 ガルドの声は低く、掠れていた。


「お前をグランヴェルトにもセルヴィスにも渡さないために。鋼城(こうじょう)の設計データを持ち出したのは鋼城(こうじょう)を止めるためだが、灰域(アッシュランド)に隠れたのはお前のためだ。グランヴェルトが灰域(アッシュランド)まで手を伸ばすのは難しい。セルヴィスの目も届きにくい。ラストヘイムは灰域(アッシュランド)の中でも辺境だ。そこに、お前を隠した」


「だが、グランヴェルトがデータの返還を迫った」


「ああ。テオは取引をした。データの隠し場所と引き換えに、お前とラストヘイムの安全を要求した。グランヴェルトがそれを守ったかどうかは分からん。だがテオは、その取引を信じて消えた」


 カイの手が震えた。怒りではなかった。


 父が消えた理由。ガルドがラストヘイムに残った理由。ネイサンの壊れた体。リーヴの失われていく感覚。全てが一本の線で繋がった。鋳脈(ちゅうみゃく)という技術が人間を素材にし、冴覚(さいかく)という才能が標的を生み、統治機構体(とうちきこうたい)がそれを利用する構造。その構造の中で、テオは息子を守るために消え、ガルドは親友の遺言を守るために灰域(アッシュランド)に残った。


 ネイサンは二人のやり取りを黙って見ていた。震える手で額を撫で、窓の外を見た。灰色の空。灰域(アッシュランド)の冬の空は、いつもこの色だ。


「お前の親父がどういう人間だったか、俺は知らない。だが、あの時代に冴覚(さいかく)持ちの子供を統治機構体(とうちきこうたい)から隠し通すのは、並大抵のことじゃない。命を懸ける価値があると思ったんだろう。あんたのことを」


 ネイサンの最後の言葉は、カイにではなくガルドに向けられていた。ガルドは何も答えなかった。煙草の箱をポケットに戻す。その手の動きだけが、44年分の人生の重さを語っていた。


 カイはガルドに向き直った。


 怒りがあった。まだある。嘘をつかれていた怒りは消えていない。だが、その怒りの下に、別のものがあった。10年間、嘘をつきながら、それでも自分の傍にいた男への感情。言葉にするには複雑すぎるもの。


「ありがとう」


 ガルドの目が一瞬だけ揺れた。暗い茶色の瞳の奥で、何かが動いた。それが何なのか、カイには分からなかった。安堵か、自責か、あるいはその両方か。


 ガルドは口を開きかけて、閉じた。何も言わなかった。言葉にできなかったのか、言葉にする資格がないと思ったのか。カイにはそのどちらも分かった。

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