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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio SASAME
折れた天秤

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|灰域《アッシュランド》集落連合

バートンの執務室は、旧世界の銀行の金庫室を改装したものだった。


 壁面のコンクリートが剥き出しになっている部分と、後から補修した木材の継ぎ目が交互に並ぶ。天井の蛍光灯は3本のうち1本が切れていて、部屋の隅に薄い影を落としていた。鉄扉は当時のまま残されており、厚さ10センチはある鋼鈑に無数の引っかき傷がついている。大崩落(ダウンフォール)の時に誰かがこじ開けようとした痕だろう。金庫室としての用途を失ってから30年、この部屋はストーンクロスの政治の中心になった。


 カイはその影の中に立っていた。壁に背中を預け、腕を組んで、テーブルを囲む大人たちのやり取りを見ている。


 テーブルの上には灰域(アッシュランド)の地図が広げられていた。手描きの地図だ。印刷技術が灰域(アッシュランド)にはない。バートンが自ら測量し、何枚もの紙を繋ぎ合わせて作ったものだとカイは聞いている。ストーンクロス、アイアンウェル、ラストヘイム。3つの集落が、鉛筆で描かれた三角形の頂点に位置している。集落の間の距離、地形の起伏、旧世界の道路の残骸が細かく記入されていた。三角形の内側に、小さな集落の名前がいくつか書き込まれている。ブライド。リッジウェイ。スラグタウン。セルヴィスの浄化が東から順に進む中で、既にブライドは消えた。


 バートンが椅子の背もたれに体を預け、通信機に向かって話しかけた。右手の小指がない手で、通信機のスイッチを操作する。その欠損をバートンは隠さない。クレスタを辞めた時の「手切れ金」だという噂があるが、カイは真偽を知らない。


「コンラッド。結論を出そう」


 通信機越しのコンラッドの声は、距離相応にざらついていた。タリアの通信網は灰域(アッシュランド)にしては上出来だが、暗号化の負荷で音質は犠牲になる。声に混じるノイズが、二人の間にある物理的な距離を思い出させた。ストーンクロスからアイアンウェルまで、残殻(ざんかく)で半日の行程。人の足なら3日かかる。


「結論を急ぐな、バートン。灰域(アッシュランド)集落連合という名前を口にした瞬間、我々は統治機構体(とうちきこうたい)の標的になる。今でも個別に狙われているが、連合を名乗れば組織的な反乱勢力と見なされる。今まで以上に苛烈な攻撃を受ける」


「既に標的だ」


 ボルトが口を挟んだ。テーブルに片手をつき、地図を見下ろしている。186センチの大柄な体が蛍光灯の光を遮り、地図の東半分に影を落とした。坊主頭の頭頂部にある刀傷が、蛍光灯の下で白く光る。腕に巻いた鉄殻(てっかく)部品のバンドが、動くたびに乾いた音を立てた。


「セルヴィスは東の小集落から順に潰している。ストーンクロスの東方40キロにあったブライド集落は先月浄化された。住民120人が保護の名目で収容された。次はリッジウェイだ。200キロ離れた場所の話じゃない。すぐ隣の話だ。名乗ろうが名乗るまいが、あいつらは来る。だったら先に旗を立てろ。旗のない軍隊は、ただの暴徒だ」


 コンラッドが沈黙した。通信機のノイズだけが、数秒間、部屋を満たす。カイはその沈黙の重さを感じていた。コンラッドはアイアンウェルの700人の命を預かっている。一つの判断が、700人の運命を変える。沈黙の中に、何百人もの住民の顔が浮かんでいるのだろう。


「ボルトの言い分は分かる。分かっているんだ。だが連合を名乗れば、アイアンウェルの鉄鉱石を連合に供出する流れになる。うちの集落の自主性が損なわれる。あの鉄鉱石は、アイアンウェルの経済の根幹だ。周辺集落との交易で食糧を得ているのは、鉄鉱石があるからだ。それを連合に供出すれば、アイアンウェルは自力で食糧を確保する手段を失う」


 バートンが指で地図のアイアンウェルの位置を叩いた。旧世界の鉱山跡地の近くに描かれた小さな円。灰域(アッシュランド)唯一の金属資源産出拠点。残殻(ざんかく)の補修部品を自前で鋳造できる、灰域(アッシュランド)で最も戦略的価値の高い場所。


「資源は各集落の管理下に置く。供出は任意だ。強制はしない。ただし防衛は共同で行う」


 バートンは椅子から身を起こした。地図に両手をつき、通信機に向かって語りかける。声のトーンが僅かに低くなった。カイはその変化に気づいた。交渉の声だ。バートンは穏やかに話しているように見えて、声のトーンを意図的に操作している。


「コンラッド。ストーンクロスが攻撃を受けた時、アイアンウェルが動かなければ、次はアイアンウェルが単独で潰される。逆もまた然りだ。各個撃破されるのを待つか、連携して持ちこたえるか。選択肢は二つしかない。防衛の共同からまず始めよう。資源供出の話は、後でいい。信頼が先だ」


 また沈黙。カイは腕を組んだまま、通信機を見つめた。


「……まずは防衛の共同からだ。資源供出は、必要が生じた時に改めて協議する。だが条件がある。連合の決定は3集落の合議制にしてくれ。ストーンクロスの独断で動かれては困る」


「合議制で構わない。緊急時の軍事判断のみ、ボルトに一任する。それ以外は合議だ」


「ボルトに一任、か」


 コンラッドの声に渋りが残っていた。傭兵の頭に軍事権を委ねることへの抵抗だろう。だが、軍事面で最も経験があるのがボルトであることは、コンラッドも認めているはずだ。


「それでいい」


 バートンが頷いた。その顔には安堵も勝利もなく、ただ次の段階へ進む実務家の表情があった。


「連合の名称は灰域(アッシュランド)集落連合。代表はストーンクロスが務める。軍事統括はボルト。資源管理はコンラッド。最初の合同防衛会議を来週行う。コンラッド、ストーンクロスまで来られるか」


「護衛をつけて行く。残殻(ざんかく)2機。うちの鋳造部品で組んだ機体だ」


「待っている」


 通信が切れた。ノイズが消え、部屋に静寂が戻った。


 バートンは通信機のスイッチを落とし、椅子の背にもたれた。目を閉じ、額に手を当てる。旧クレスタのスーツに似た仕立ての上着の肩が、わずかに下がった。55歳の男の疲労が、そこに滲んでいた。


「合意を取るのは、戦闘より消耗する」


 ボルトが鼻を鳴らした。


「コンラッドは臆病じゃない。慎重なだけだ。あいつは自分の集落の人間を一人も死なせたくないんだ。妻子を大崩落(ダウンフォール)で失った男が、残った住民を守ろうとしている。その気持ちは分かる」


 バートンが目を開け、カイを見た。奥二重の目は、普段は表情が読みにくい。だが今は疲労が防壁を薄くしていて、その奥にある真剣さが透けて見えた。


「カイ。君はずっと黙っていたな」


「俺に言えることはない。政治は分からない」


「政治が分からなくても、自分の集落のことは分かるだろう。ラストヘイムの声が、この連合には必要だ。ゲオルグに伝えてくれないか」


 カイは壁から背中を離した。地図の上のラストヘイムを見た。3つの集落の中で最も小さい点。人口200人。ゲオルグがいて、タリアがいて、クレアがいて、ロイドがいる。マーサがいて、リックがいる。あの集落で生まれ、育ち、父が消え、ガルドと暮らした場所。カイにとっての「帰る場所」。


「ゲオルグに伝える。ラストヘイムも連合に入ると」


「ゲオルグは賛成するかね」


「分からない。でも、聞いてはくれる。あの人はいつもそうだ。まず座れと言って、話を聞く。それから考える」


 バートンは小さく笑った。疲れた笑みだったが、目の奥には確かな光があった。15年間ストーンクロスを率いてきた男の目。


「大人の仕事は大変だろう」


「大人の仕事は大変だな」


 カイは素直にそう思った。ボルトの戦場での決断は、命のやり取りだ。だがバートンの交渉の決断も、同じだけの命がかかっている。言葉を間違えれば合意は崩れ、合意がなければ連携できず、連携できなければ各個撃破される。テーブルの上の戦いは、鉄殻(てっかく)の戦いと同じだけの緊張を伴う。


「お前も大人の側にいるんだよ、カイ」


 カイは何も返せなかった。17歳の自分が大人の側にいると言われても、実感がない。ケストレルの操縦桿を握ることはできても、テーブルの上で言葉を武器に合意を勝ち取る技術は持っていない。


 だが、バートンの疲れた顔を見て、ボルトの太い腕を見て、通信の向こうのコンラッドの沈黙を聞いて、一つだけ分かったことがある。


 戦場で鉄殻(てっかく)を動かすことだけが、戦いではない。


 テーブルの上の地図。3つの点を結ぶ三角形。その線は、まだインクが乾いていないほど新しい。だが、線は引かれた。灰域(アッシュランド)が初めて一つの形を持とうとしている。

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