|灰域《アッシュランド》を歩く軍人
灰域の道は舗装されていない。
リオンはそのことを知識として知っていた。だが実際に自分の足で歩くと、知識と体験の間にある溝の深さに驚いた。
泥と瓦礫と雪が混ざった獣道を、リオンは歩いていた。軍服は脱いだ。灰域の住民が着るような厚手の防寒着を纏い、フードを目深に被っている。ブーツだけがセルヴィス支給品のままだった。底が厚く、防水加工がされている。灰域の靴とは明らかに質が違った。
ルイ・ヴェルデが横を歩いている。
クレスタの情報屋は軽装だった。灰域慣れした歩き方で、地面の起伏を見ずに避けていく。リオンは何度か足を取られ、ルイに笑われた。
「あんた、管区の人間の歩き方をしている」
「どういう意味」
「姿勢が良すぎる。背筋が伸びてる。灰域じゃ目立つ」
リオンは意識して背中を丸めた。
「それも不自然だ。猫背にしようとして力が入ってる。自然に歩け」
「自然にと言われても」
「前を見すぎるな。地面を見ろ。穴があるから」
リオンは視線を下げた。確かに、足元には罠のような窪みが点在していた。旧世界のアスファルトが割れた跡。地下のインフラが崩壊して空洞になった場所。踏み抜けば足首を捻る。灰域の住民はこの地形を熟知しているから、視線を低くして歩く。セルヴィスの管区では、舗装された道路を前を向いて歩けた。足元を気にする必要がなかった。
その差が、歩き方に出る。
「管区の人間は遠くを見る。灰域の人間は足元を見る」
ルイが言った。
「どっちが正しいとかじゃない。ただ、違うんだ。歩き方で出身が分かる。話し方でも分かる。視線の動きでも分かる。あんたがセルヴィスの管区に戻ったら、灰域の癖が少しでも出たらアウトだ」
「大丈夫。管区での振る舞いは忘れていない」
「問題はそこじゃない。問題は、灰域を知ってしまった後の目だ。管区の街路を歩いた時に、舗装された道路を見て何も感じなかった頃の目に戻れるかどうか」
リオンは答えなかった。
ルイの指摘は鋭かった。リオンは灰域を知ってしまった。ストーンクロスの配給食を食べ、瓦礫の道を歩き、残殻のコックピットの冷たさを知ってしまった。管区の舗装された道路を歩いた時に、「なぜ灰域にはこれがないのか」と考えてしまう目。その目を隠し通せるか。
二人は旧世界の国道の残骸に沿って歩いた。アスファルトの破片が瓦礫の中に点在している。かつてはここに車が走っていた。信号機があり、標識があり、人々が行き交っていた。今は灰原草が道路の隙間から伸び、冬の白い穂が風に揺れている。
途中、旧世界の道路標識の残骸を見つけた。
金属製の支柱が傾き、標識板が錆びて文字が読めなくなっている。だが矢印の形だけは残っていた。右方向を指す矢印。どこかの町か、どこかの施設を指している。もう存在しない場所を。
「この道標は大崩落前のものだ」
ルイが足を止めた。
「30年以上、誰も直さず、誰も倒さず、ただ立っている」
リオンはその矢印を見上げた。錆びた金属が、灰色の空を背景に静かに朽ちている。矢印の先に何があったのか。町か。市場か。学校か。そのどれもが、大崩落で消えた。
「失われた世界の、残された方角」
リオンは呟いた。
「灰域は、忘れられた場所だった」
「忘れられたんじゃない」
ルイが歩き出した。
「見捨てられたんだ。忘れるのは過失だが、見捨てるのは意志だ。セルヴィスもグランヴェルトも、灰域を意志をもって見捨てた。お前の父親もその一人だ」
リオンは何も言えなかった。ルイの言葉は正しかった。ケネス・アスフォードは灰域を「秩序の外にある場所」と呼んだ。幼いリオンに地図を見せ、灰域を赤い印で示し、「いつか、あそこも秩序の中に入れる」と言った。「入れる」。それは「救う」ではなく「組み込む」だった。
二人は夕方までにクレスタの物流拠点に到着した。
旧世界の倉庫を改装した小さな中継基地。クレスタの旗が掲げられ、物流船の荷下ろし用のクレーンが海辺に並んでいる。ここから定期便に乗り、ポートガードに向かう。セルヴィスの管区に戻る。
リオンは拠点の隅で荷物を確認した。偽の通行証。アイリスとの暗号鍵。メモ帳。防寒着の下に隠した小型通信機。それだけが、彼女の武器だった。
ルイが船の出発時刻を確認しに行った。
一人になったリオンは、海を見た。冬の海は鉛色で、波が低く、音が重い。この海の向こうにセルヴィスの管区がある。自分が生まれ育った場所。父がいる場所。母がいる場所。
そして、子供を「保護」し、冴覚を検査し、鋳脈の「素材」として選別する場所。
リオンはフードの中で拳を握った。
帰る場所は二つある。一つはカイのいるストーンクロス。もう一つは、変えなければならないセルヴィス。どちらも捨てられない。だから両方のために動く。矛盾していることは分かっている。だが矛盾したまま走る以外に、リオン・アスフォードには選択肢がなかった。




