カイの背中
リオンが去って、3日になる。
ストーンクロスの空気は、リオンが出ていく前と何も変わらない。変わったのは、カイの側だった。ふとした拍子に通信機へ目が行く。誰からの連絡も入らないと分かっているのに、何度も。
格納庫。ケストレルの前に立つ。
全高10メートルを超える銘殻が、薄暗い照明の下に佇んでいる。灰域の廃材と旧世界の合金で組み上げられた機体。父のために作られ、父が乗り、父が消えた後にカイの手に渡った鉄殻。
トワが声をかけてくる。
「寂しいのか」
「うるさい」
格納庫の入り口に肩をもたれかけて、リントが笑う。
「素直じゃないな」
「リント、お前もうるさい」
「分かった分かった」
リントが両手を上げて降参のポーズを取る。
「だがな、カイ。お前の表情は分かりやすいぞ。ぼーっとケストレルを見上げてる時と、通信機の方を見てる時で、顔が違う」
「見てない」
「見てる」
トワが鼻を鳴らした。
「お前の嘘は残殻の装甲より薄い。すぐ抜ける」
カイは苛立ちながらも、二人の軽口に少しだけ救われている。戦場の合間の、こういう馬鹿話。テオもそうだったんだろうか。傭兵仲間と、格納庫の前でこんな風に笑っていたんだろうか。
格納庫の奥で、金属を打つ音がした。
ガルドがケストレルの左腕関節を調整している。ダリオ戦での被弾箇所だ。歪んだ装甲板を、ハンマーで少しずつ叩き直していく。灰域に交換部品はない。あるのは、この手と、ありあわせの工具だけだ。その音を、ラストヘイムでも聞いた。
カイはガルドの背中を見た。
作業着の上からでも分かる痩身の体。肩と腕に筋肉がついているのは、長年の金属加工と重量物運搬のためだ。白髪交じりの髪を無造作に後ろに流し、ツールベルトの工具が腰で揺れている。あの背中を、もう7年も見てきた。
ラストヘイムの作業場。夜中に残殻へ潜り込むガルドの背中を、何度も見てきた。10歳で溶接の火花を見せられ、12歳で初めてレンチを握らされ、配線の繋ぎ方を教わる。
ある冬の夜、凍える床で寝落ちしたカイの体を、ふいに重たい温もりが包んだ。薄目を開けると、煙草の煙の向こうで、あの背中はまだ黙々と動いていた。いつ被せたのか、毛布の上に、煙草の灰がぽろりと落ちた。布越しのその重さを、いまも背中が覚えている。
ずっと、嘘をつかれていた。父の死の真相を、この背中に隠されたまま、飯を食わされ、レンチを握らされてきた。
カイは黙ってガルドの横に立つ。
工具を手に取り、ケストレルの左腕関節のボルトを確認する。ガルドが矯正した装甲板の位置を、外側から指でなぞる。溶接痕が微かに残っているが、仕上げは丁寧だ。あいつの手は、いつもそうだ。
会話はなかった。
二人の手が同じ機体に触れている。カイが外側の装甲を確認し、ガルドが内側のフレームを調整する。時々、カイがボルトを押さえ、ガルドがナットを締める。声をかけずに、阿吽の呼吸で。ラストヘイムから何年も、こうして並んできた手だ。
1時間が過ぎた。
ケストレルの左腕の修復が完了する。関節の可動テストをカイが手動で行い、ガルドがテスターで負荷を測る。数値を読み上げる声だけが、格納庫に響く。
「左肘、負荷正常。左手首、応答に遅れなし。許容範囲内だ」
数値の話だけが、二人の間を行き来した。
ガルドが工具を片づけ始めた。
作業場の隅にある小さなガスコンロに火をつける。鍋に水を入れ、粗挽きのコーヒー豆を放り込む。灰域流の淹れ方。フィルターなんてものはない。煮出して、上澄みをカップに注ぐ。
二つのカップ。
一つをカイの前に置いた。
カイは黙って受け取る。口をつける。苦い。口の中が渋くなるほどの苦味だ。
「砂糖がない」
「贅沢言うな」
それが、亀裂の後の最初の言葉だった。
カイはコーヒーを飲み干す。苦い。だが、温かい。冬の格納庫の冷えた空気の中で、カップから立ち上る湯気が白い。ガルドのコーヒーはいつも苦すぎる。ラストヘイムでも同じだった。タリアは「ガルドのコーヒーは毒」と顔をしかめ、ゲオルグは何も言わずに飲み干していた。
カイはカップを作業台に置き、立ち上がって出口へ向かう。
「カイ」
ガルドの声が背中にかかる。カイは足を止めたが、振り返らない。
「明日、ケストレルの推進剤系統の最終チェックをする。立ち会え」
「分かった」
それだけだった。
カイは格納庫を出る。冬の風が頬を叩く。雪がちらついている。
背中で、水の音が聞こえた。カップを洗う音だ。一つではない。二つ。
許す、とは言えない。
それでも、カイは足を止めなかった。襟元から滑り込んだ雪が、首筋で冷たく溶けた。




