同じ屋根の下
カイに信頼を失ってから3日目の夜。
ガルドはストーンクロスの仮宿で酒を飲んでいた。旧世界の集合住宅の一室。壁の塗装が剥がれ、窓枠が錆びて開かなくなっている。暖房は灯油ストーブ一台。揺れる炎の光が、天井に影を落としている。
酒は灰域の穀物蒸留酒だった。
味は粗い。アルコールの刺激が先に来て、穀物の風味は後から追いかけてくる。だがガルドはそれでよかった。味を楽しむための酒ではない。頭の中で回り続ける記憶を、少しだけ鈍らせるための酒だった。
工具を手入れしながら飲む。
精密ドライバーの先端を研ぐ。キャリパーの開閉を確認する。六角レンチのセットを一本ずつ拭き、油を塗る。工具の手入れは技匠の基本だった。工具が錆びれば、機体も錆びる。テオにもそう教えた。カイにも、同じことを教えた。
扉が叩かれた。
「開いてる」
トワが入ってきた。雪が肩に積もっている。払いもせず、ガルドの向かいの椅子にどかりと座った。
「酒か」
「一人で飲む酒は好かん」
「俺は好きだ。面倒がなくていい」
「嘘つけ。あの子に嫌われるのが怖いんだろう」
ガルドの手が止まった。ドライバーの先端を布に押し付けたまま。
「嫌われたんじゃない」
「じゃあ何だ」
「信用を失った」
トワは黙って酒瓶を取り、自分のカップに注いだ。一口飲み、顔をしかめた。
「まずいな」
「文句あるなら飲むな」
「飲むよ。まずい酒は人付き合いの潤滑油だ」
トワは二口目を飲み、ガルドを見た。
「取り返す気はあるのか」
「取り返すも何も、俺がやったことは消えない」
「消えないのは分かってる。だが、あの子はお前を必要としている。それも消えない」
ガルドは苦笑した。煙草を取り出し、火をつける。紫煙が灯油ストーブの熱で巻き上がった。
「必要とされてるのは俺じゃない。俺の技術だ。ケストレルの整備ができる技匠が他にいれば、俺は要らない」
「本気で言ってるのか」
「本気だ」
トワは首を振った。
「お前は馬鹿だな、ガルド。あの子が怒ってるのは、嘘をつかれたからだ。技匠としてのお前に怒ってるんじゃない。親代わりとしてのお前に怒ってる。その区別がつかないなら、本当に馬鹿だ」
ガルドは煙を吐き出した。
トワの言葉が腹の底に落ちていく。技匠と親代わりの区別。ガルドは自分をどちらだと思っていたのか。両方だった。どちらか一方だけではいられなかった。テオが「息子を頼む」と言った時、それは技匠としてではなく、親友としての託しだった。だがガルドにできたのは、技匠の仕事だけだった。工具を握り、機体を直し、カイに整備の仕方を教えること。不器用に頭を叩き、「飯を食え」「寝ろ」と命令すること。それが、ガルドにとっての「息子を頼む」への答えだった。
「なら取り返せ」
トワが言った。
「言葉じゃなく、行動で」
ガルドはネイサンのことを思い出した。
ネイサン・グレイ。元グランヴェルトの鋳脈者。ガルドが手がけた「作品」の一人。ストーンクロスで再会した時、ネイサンの体は既に壊れかけていた。右手の指が3本、感覚を失っていた。歩く時に右足を引きずっていた。それでもネイサンは酒を持ってガルドの前に座り、無言で乾杯した。恨み言は一つも言わなかった。
「俺は鋳脈を作った側の人間だ」
ガルドは煙草を灰皿に押し付けた。
「その俺が、鋳脈を使わない機体を作っている。矛盾だろう」
「矛盾じゃない」
トワは残りの酒を飲み干した。
「それがお前の答えだろう」
窓の外に、人影が見えた。
仮宿の前の道を、誰かが歩いている。夜の見回りか。いや、あの歩き方は――。
カイだった。
手に何も持たず、防寒着の襟を立て、一人で夜のストーンクロスを歩いている。眠れないのだろう。格納庫の方角を向いている。ケストレルのところに行くのかもしれない。
同じ集落の中にいて、同じ空の下にいて、言葉が届かない。
ガルドは窓から目を離した。
「明日もケストレルの整備がある」
ガルドは酒瓶の蓋を閉め、ケストレルの調整メモを開いた。小さな手帳に、精密な数字が並んでいる。操縦桿の応答速度。ペダルの踏み込み角度。センサーの感度設定。全てカイ用に書き直された数値。
「操縦桿の応答を0.02秒短縮。カイの冴覚の反応速度に合わせる」
ペンを走らせ、数値を記入する。
トワが立ち上がった。
「お前にできるのは、それだけか」
「ああ。それだけだ」
「なら、それを続けろ。やめるな」
トワが出て行った。扉が閉まる。
ガルドは一人になり、メモ帳にペンを走らせ続けた。灯油ストーブの炎が揺れ、影が壁に踊る。
「テオ」
呟いた。
「お前の息子は、お前より頑固だ」
返事はなかった。ガルドの声だけが、旧世界の部屋の中に溶けて消えた。




