テオの右手
焦土紀6年。テオの息子が生まれた年。
ガルドの記憶は、ラストヘイムの原型となった廃墟の集落に戻っていく。旧工業都市の崩れかけた建物の中に、テオは家族と暮らしていた。
テオは傭兵を半引退していた。
ケストレルは格納庫に入れたまま動かさず、集落の残殻の修理で生計を立てていた。カイの母がいた頃のテオは、戦場にいた頃とは別人のように穏やかだった。朝、赤ん坊のカイが泣けば飛び起き、夜は作業場で残殻の部品を磨きながら、妻が寝かしつけるのを待っていた。
ガルドは、テオの右手を見ていた。
最初に気づいたのは、コップを持つ時だった。
テオが食卓でコップを掴む。指先の力加減が僅かにずれて、コップが傾く。中身がこぼれかける。テオは何事もなかったように持ち直すが、ガルドの目はそれを見逃さなかった。
次は工具だった。六角レンチを掴む右手の親指が、一瞬だけ滑る。0.1秒にも満たない遅延。普通の人間なら気にもしない程度の、微かな不器用さ。だがテオはかつて、目を閉じたまま工具を選び分けた男だった。指先で金属の肌理を読み取り、ミリ単位の公差を触覚だけで判別できた男だった。
指先の感覚が、鈍り始めていた。
鋳脈の神経劣化。ガルドが設計したリレー素子が頸椎に埋め込まれ、神経組織と癒着し、鉄殻のセンサー情報を脳に伝える。その代償として、操手自身の末梢神経が少しずつ壊れていく。劣化は指先から始まる。触覚が薄れ、温度感覚が鈍り、やがて痛みすら感じなくなる。冴覚持ちの鋳脈者の場合、通常の3倍から5倍の速度で進行する。
テオは冴覚持ちだった。
「ガルド。お前のせいじゃない」
ある夜、二人で作業場にいた時、テオが言った。ガルドの視線に気づいていたのだ。右手の指先がかすかに震えるのを、ガルドが見つめていることに。
「俺が望んだんだ。鋳脈がなきゃ、大崩落を生き延びられなかった。お前の技術のおかげで、俺はここにいる」
だがガルドには、その言葉が逆に痛い。テオがガルドを責めないからこそ、ガルドは自分自身を責め続ける。
半年後、テオの右耳の聴覚が失われ始めた。
最初は高音域から。鳥の声が聞こえにくくなった。次に、遠くの声が掴めなくなった。妻がテオの右側から話しかけると、テオは首を左に傾けるようになった。無意識に、聴こえる方の耳を向ける癖が身についた。
ガルドは除去手術を提案した。
「リレー素子を摘出すれば、劣化は止まる」
テオは首を振った。
「除去したら死ぬだろう」
ガルドは答えられなかった。テオの言う通りだった。リレー素子は神経組織と完全に癒着している。4年分の神経成長がリレー素子の表面を覆い、素子を取り除けば周辺の神経系が道連れに損壊する。最悪の場合、脳幹に達する神経損傷で即死。よくても、四肢の麻痺が残る。
「息子が生まれたばかりだ。死ぬわけにはいかない」
テオの声は静かだった。怒りも恐れもなく、ただ事実を述べるように。
ガルドは黙った。
自分が設計した技術の不可逆性が、テオの選択肢を奪っていた。リレー素子は「戻せない」ように設計されている。なぜそう設計したのか。理由は覚えている。素子が神経から外れれば、戦闘中にフィードバックが途切れ、操手が死ぬ。だから外れないように作った。操手を守るために。
その「操手を守る設計」が、テオを鋳脈から逃がさない鎖になっていた。
* * *
焦土紀7年の春。
テオが赤ん坊のカイを抱いている場面を、ガルドは今でも正確に覚えている。
夕方の作業場だった。テオは残殻の修理を終え、作業着のまま家に戻ったところだった。妻が買い出しに行っている間、カイの面倒を見る番だった。テオは右手でカイを抱いていた。左手は操縦桿を握る利き手で、自然とそちらに力が入る。だから日常生活では右手を使うことが多かった。
その右手の指先には、もう感覚がほとんどなかった。
テオは赤ん坊を慎重に抱えていた。指先の感覚がないから、どれだけの力で握っているか分からない。強すぎれば痛がる。弱すぎれば落とす。だからテオは目で確認しながら、ゆっくりと、壊れ物を扱うように息子を抱いた。額に汗が浮いていた。赤ん坊一人を抱くだけのことが、テオにとっては真剣勝負だった。
カイが泣いた。
テオが慌てて体を揺する。揺すり方がぎこちない。右手が震えている。感覚のない指が、赤ん坊の小さな体を支え続けている。
「おい、泣くなよ。親父が下手くそなのは認めるから」
テオがカイの顔を覗き込む。カイが泣き止まない。テオは途方に暮れた顔をした。戦場では銘殻で敵を薙ぎ倒す男が、赤ん坊の前では無力だった。
ガルドは作業場の入り口から、その光景を見ていた。
声もなく泣いた。
テオの右手。あの手にリレー素子を埋め込んだ手術は、ガルドがやった。テオの頸椎にメスを入れ、素子を神経に沿わせ、生体接合剤で固定した。あの日の手術室の匂いを覚えている。消毒液と金属の匂い。テオの後頭部の剃った髪。「やってくれ、ガルド。これで生き残れるなら」と言ったテオの声。
あの手術が成功したから、テオは戦場を生き延びた。
あの手術が成功したから、テオの体は壊れていく。
ガルドが作ったものが、テオを救い、テオを壊している。
* * *
作業場の奥で、テオはようやくカイを寝かしつけた。
右手の指先を見つめている。感覚のない指を、何度か開閉する。
「ガルド」
「ああ」
「息子には、こんな手を継がせたくない」
ガルドは答えられなかった。
テオは窓の外を見た。灰域の夕焼けが、旧工業都市の廃墟を赤く染めていた。
「鋳脈は、もう俺で終わりにしてくれ」
その言葉が、ガルドの胸に杭のように打ち込まれた。
テオがカイを抱いていた右手。感覚のない指で、それでも落とすまいと慎重に抱えていた、あの右手。
ガルドは生涯、あの光景を忘れることができない。




