灰域《アッシュランド》の朝
リオン・アスフォードは自分が眠っていたことに気づいて目を開けた。
天井の罅割れが薄明かりの中で影を作っている。右腕は包帯で固定されたままで、肋骨の鈍痛が呼吸のたびに浅く走る。消毒液の匂いと、もう一つ何か温かい匂いが漂っていた。
朝だ。
窓の外から声がする。
水を汲む音、布を叩く音、子供の笑い声。集落が目を覚ましている。
リオンは左手で体を起こし、寝台の端に腰を下ろした。軍服は脱がされて畳んであり、代わりにごわついた布の服が掛けられている。つぎはぎの作業着は住民が着るようなものだった。
着替えるのに手間取った。右腕が上がらないため、袖に左手を通そうとして固定された肘が引きつれ、息を詰める。何度かやり直してようやく片方の腕を通した。ボタンを片手で留めるのにも難儀し、指先が滑って二つ目を留め損ねては留め直す。
人を呼べば早いが、人の手を借りるつもりはなかった。
診療所を出ると空気が変わった。
砂と鉄粉の混じった乾いた風が頬を叩く。一息吸うと鼻の奥に金属の匂いが刺さり、喉の奥がいがらっぽくなったため、リオンは無意識に呼吸を浅くした。空は灰色だった。雲ではなく、見上げても空の色が均一に曇っているだけで、目を細めても光の出どころが分からなかった。
集落の共同水場には朝から住民が集まっていた。
石で囲った窪みに水を溜め、順番に手と顔を洗っている。灰域パンを千切って口に入れる者もいた。パンは硬く薄く、味はほとんどない。どんぐり粉が混じった粗挽きの小麦を灰で焼いたものだという。
セルヴィスのフォートレス・レーションのほうが栄養価は高いだろう。だがあの「紙を噛んでいるような」軍用糧食には温度がなかった。住民が手にしているパンからは、焚き火の温もりがまだ消えていなかった。
「あ、起きたんだ」
声がして振り向くと、肩の長さの茶色がかった黒髪の少女がオーバーオール姿で近づいてきた。鼻の頭にそばかすが散っており、腰には配線がむき出しの自作の通信機がぶら下がっている。
昨日クレアからカイの幼馴染だと聞いたタリア・ホリーだ。
「ここの食事、口に合わないでしょ。でも慣れるよ」
タリアは屈託なく笑ったが、リオンはすぐには言葉を返せなかった。軍服でない人間の名を呼ぶような気軽さで、敵かもしれない相手に話しかけてくる。そういう顔をリオンは知らなかった。
「……ありがとう」
「それ、カイのお母さんが使ってた服なんだって。クレアさんがとっておいたやつ。サイズが合うかは分かんないけど」
リオンは自分の着ている作業着に目を落とした。自分の腕には袖口が少し長い。カイの母親の服。死んだ人間の服を敵に着せている。リオンはその布の端を左手で軽く握った。
タリアに連れられて集落の中を歩く。
* * *
集落の中央にある共同井戸には旧世界のコンクリート管が地中に刺さっており、手動のポンプで水を汲み上げる。リオンは掌で受けた水を口に含んで眉を寄せた。鉄の味がした。
「あたしたちの命の水。鉄味がするのは慣れるしかないんだよね」
タリアは水を手ですくって顔を洗った。水滴がそばかすの上を転がる。屈んだ拍子に腰の通信機が石組みにぶつかって、かちりと鳴った。
「それ、自分で組んだのか」
リオンの問いにタリアは得意げに通信機を持ち上げてみせた。古い基板には別々の機体から外したらしい配線が継ぎ足してある。半田の盛り方は雑だが、繋ぎ方には筋が通っていた。
「セルヴィスの捨てた残骸から、使えそうなのを拾ってくるの。アンテナだけは新品じゃないと駄目だけどね」
リオンは黙ってその半田の継ぎ目を見ていた。アンテナの根元には細い針金が補強に巻いてある。器用な手だった。
広場では白髪を丸く結い上げた老婆が子供たちに何かを教えていた。地面に木の棒で文字を書き、子供がそれを真似ている。
集落の最年長者であるマーサ・ウィンターだとタリアが囁いた。背筋が真っ直ぐで目だけが黒々と光っており、木の棒を動かす手は子供たちの手よりも速かった。
「あんた、軍人さんかい」
マーサが顔を上げ、子供たちの手を止めずにリオンを見た。
「……はい」
「うちの子たちを見てくれ。こんな場所でも、子供は学びたがるんだ」
子供たちが瓦礫に炭で文字を書いている。ぎこちない筆跡。「水」「火」「鉄」。
リオンはセルヴィスの士官学校を思い出した。10歳で入学し、教科書と訓練器材に囲まれた日々。ここには教科書も訓練器材もない。ただ地面と木の棒だけがある。
マーサが温かいスープを差し出した。錆鉄キノコを粉にして湯で溶いたものだ。椀を受け取る左手に湯気が触れる。一口含むと舌に土のような苦みが残り、喉を通る時にわずかに咳き込みそうになる。だが空きっ腹にその温度がゆっくり落ちていった。マーサは何も言わずにリオンが飲み下すのを見ており、背後では子供たちの炭を擦る音が続いている。
「まあ、お茶でも飲みな」
マーサの口癖らしい。リオンは両手でカップを包んだ。陶器ではなく、鉄殻の外装を削って作った金属のカップだ。手のひらに湯の熱がじかに伝わってきて、指の付け根が痛いほど熱い。
セルヴィスの食堂では温度調節された飲料が自動で出てきた。手のひらが熱いと感じたのはいつ以来だろうか。リオンはその熱をしばらく手放さなかった。
* * *
集落の外縁を歩くと残殻が見えた。
寄せ集めの鉄殻だ。左腕は別の機体から移植され、胴体装甲は3枚のうち1枚が欠けている。関節のあちこちに錆苔がこびりつき、塗装は剥げて鉄地が剥き出しになっていた。
その足元でカイが工具を握り、膝関節の軸受けを調整している。ゴーグルを首からぶら下げて鉄粉にまみれた指で部品を回し、前髪が右目にかかっていた。
リオンは足を止めた。
あの機体で、と思った。あんな寄せ集めの、銘殻でも何でもない残殻で、あの少年は集落の前に出ていったのだ。リオンはその先を言葉にできなかった。
カイは手を止めず、リオンの気配に気づいているのかいないのか、黙々と作業を続けていた。
リオンは踵を返した。見ていることを知られたくなかった。
集落へ戻る道で、井戸端の子供が二人リオンを見上げて急に黙った。一人がもう一人の袖をそっと引く。軍服は着ていないが、それでも自分がどこから来た人間かはこの子たちにも伝わっているのだろう。リオンは目を逸らして歩を速めた。背中に子供たちの視線がしばらく残った。
夕方、リオンはポラリスの通信機を確認した。
集落の南端にポラリスは横倒しのまま安置されており、コックピットの天蓋はカイが救出のためにこじ開けたままだ。リオンは右腕を庇いながら、片手と肩で身を支えて狭い操縦席に潜り込んだ。座席のクッションが墜落の衝撃で片側に潰れている。
左手で計器をなぞる。損傷は大きいが通信系統は生きており、受信インジケータが微かに明滅している。指で操作パネルの埃を払うと見慣れた配列が現れた。落ちる前と、指が覚えている通りだった。
暗号化された短波通信が断続的に入っていた。「PA-07、応答せよ」。PA-07。リオンのコールサインだ。応答キーは左手の親指のすぐ下にある。捜索隊が動いている。
リオンは計器に伸ばしかけた左手を止めた。明滅は規則正しく続いていた。




