見捨てられた側
消毒液の匂いが狭い診療所に充満していた。
アルコールと煮沸した布。その奥に微かに鉄錆の気配がある。
カイ・セヴァルは壁に背を預けて腕を組んでいた。クレア・アシュバーンの診療所は、廃墟のコンクリート壁を仕切っただけの小さな部屋だ。天井が低く窓は一つ。旧世界のガラスが嵌まっているが、左下の角が割れて布で塞いである。
手持ち無沙汰だった。クレアが脈を取るあいだ、カイは窓を塞いだ布の端がほつれているのを眺め、それから自分の手の甲に目を落とした。昨日コックピットをこじ開けた時に切った擦り傷がある。かさぶたの縁を無意識に親指でなぞっていた。
もう半刻はこうしている。クレアに「この女が目を覚ますまで誰かいたほうがいい」と言われて、なんとなく残ってしまった。寝台の女の浅い呼吸と、クレアが器具を布で拭く乾いた音だけが狭い部屋に続いていた。カイは腕を組み直し、足の重心を左から右へ移した。
寝台の上で女が目を開けた。
深い紺色の瞳が天井を見つめている。数秒の空白。それから視線がゆっくりと動いた。天井の罅割れ、壁の染み、窓の外の灰色の空。見知らぬ場所を確認するように目だけが忙しく動く。
次の瞬間、女の喉から短い声が漏れた。半身を起こそうとして肋骨の痛みに息を詰める。固定された右腕を庇おうと左手が宙を掻き、寝台の縁を掴み損ねた。
「動くな。肋骨にひびが入ってる」
クレアの声が飛んだ。丸眼鏡の奥の目は厳しいが手つきは丁寧だった。女の肩を押し戻し、乱れた包帯を直す。左手の薬指と小指が不自然に曲がっているのがカイの位置からも見えた。指の腹で添え木の位置を確かめ、緩んだ結び目を巻き直す。馴れた手だ。
女は荒い息のまましばらく天井を睨んでいた。クレアの手が触れるたびに肩が小さく強張る。その視線が一度だけクレアの手元に落ちた。包帯を巻く所作を値踏みするように追う目だった。クレアは気づいているはずだが手は止めなかった。
やがて女が掠れた声を絞り出す。
「ここは……どこ」
「ラストヘイム」
カイが答えた。短く、それだけだ。
女の目が初めてカイを捉え、灰色の瞳と紺色の瞳が交差した。女の目がすっと細くなる。
「灰域の集落だ。お前は鉄殻ごと不時着して、俺が引きずり出した」
女はもう一度、今度はゆっくりと身を起こそうとした。クレアが肩を押し戻す。
「だから動くなと言ってるだろう。腕の骨折もまだ固定したばかりだ。動けば治るものも治らない」
女はクレアの手を振り払おうとして痛みに顔を歪めた。額の裂傷には縫合の糸が光っている。振り払いかけた手が途中で力を失って落ちた。
「……私の機体は」
「外にある。壊れてるが、形は残ってる」
女の表情が僅かに緩んだが、すぐに目が鋭くなった。
「なぜ助けた」
沈黙が落ちた。消毒液の匂いの中で窓の外から子供の声が聞こえる。鉄屑を蹴って遊ぶ日常の音だった。
「統治機構体の兵士だからって、死なせていい理由にはならないだろ」
女は何か言いかけてやめた。紺色の目がカイの顔の上をもう一度なぞる。口元が動いたが、結局言葉にはならなかった。
* * *
廊下に出るとゲオルグ・ハートが壁に寄りかかっていた。白髪を短く刈り上げた頭。右頬の火傷痕が午後の薄い光に照らされている。年寄りとは思えない肩幅で壁に凭れ、懐中時計を掌で包むように持っていた。
「起きたか」
「ああ。セルヴィスの軍人だ」
「知っとる。ロイドから聞いた」
ゲオルグは懐中時計をポケットに戻した。
「客人として扱え。敵だろうと味方だろうと、ラストヘイムに助けを求めてきた人間を追い出したことはない」
カイは頷いた。反論はない。この集落はそうやってきたのだ。
だが、ガルド・ヴェッセンは別の顔をしていた。
診療所の外壁に背を預け、赤葉の煙草に火をつけている。辛い煙が風に散った。暗い茶色の目が窓越しに診療所の中を見ている。
「セルヴィスの人間を匿えば面倒なことになる」
ガルドの声は低かった。
「分かってる」
「分かってない。あの機体は銘殻だ。セルヴィスが放っておくわけがない」
カイは黙った。ガルドの言うことは正しい。あの鉄殻の精度は灰域のどの残殻とも桁が違った。コックピットをこじ開けた時に見た計器の配列、装甲の厚み、関節の滑らかさ。あの関節を一度でいいから分解してみたい――喉から手が出るほど欲しい機体だ。そう思いかけてカイは口の中で短く舌打ちした。今はそういう話じゃない。
ガルドの煙草の煙が診療所の窓に薄く流れていく。中では女がまた眠ったらしかった。クレアが寝台の脇で何かを片付けている影がガラス越しに動いていた。
「……それでも、見捨てる気にはなれない」
ガルドは煙を吐き出し、何も言わなかった。赤葉の火が風に揺れていた。
* * *
夕方、カイは診療所に食事を運んだ。
共同炊事場の大鍋から椀に二杯すくう。ドライベッド・シチュー――乾燥豆と干し肉と根菜を煮込んだ集落の夕食だ。塩が強いのはゲオルグの好みがそのまま味になっているからだ。椀の脇には灰域パンを一つ。ずしりと重い固焼きの黒パンだ。
椀は両手で抱えても熱が掌に伝わってくる。指の付け根が少し熱い。こぼさないように歩幅を詰めて歩くと、診療所までの短い道で夕暮れの集落の音が耳に入った。金槌の音、誰かが廃材を引きずる音。遠くで犬が一度だけ吠えた。砲撃のあった日から住民は前より早く家に戻るようになっており、日が落ちきる前に戸の閉まる音があちこちで聞こえる。
女はベッドに半身を起こしていた。椀を渡すと左手だけでパンを千切り、口に運ぶ。咀嚼する顔に一瞬だけ何かが過った。
「……温かい」
独り言に近い小さな声だった。カイは壁際に戻った。
「セルヴィスの軍用糧食は、紙を噛んでるようだって聞いたことがある」
「……誰に」
「ガルドに。灰域の飯のほうが百倍マシだと」
女は黙ってシチューを啜ろうとしたが、左手だけでは椀が安定しない。傾いた縁から汁が揺れて零れかけた。女はとっさに膝で椀を支え、左手の指で縁を押さえ直す。その指先がわずかに震えていた。
カイは手を貸そうとして伸ばしかけた手を引いた。
「私はセルヴィスの軍人だ。あなたたちを『見捨てた側』の人間だ」
女は膝の上の椀に目を落としたまま言った。
「それは知ってる」
カイの答えは短かった。
「なのに、なぜ普通に接する」
「……さあな。ゲオルグがそうしろって言うから、そうしてる」
カイは言葉を続けなかった。
女は椀を膝の上に置き、窓の外を見た。
夕暮れの集落が見える。子供たちが鉄屑の間を走り回り、老婆が廃材で何かを編み、男が壊れた壁に板を打ちつけている。砲撃の傷跡を塞いでいるのだ。
女は長いあいだその景色を見ていた。膝の上でシチューの椀が冷めていく。湯気はもう立っていなかった。左手の指は椀の縁に添えられたまま動かない。
「……あなたの名前は」
女が振り向いた。紺色の目がカイを見ている。
「カイ・セヴァル」
「……そう」
女はそれだけ言って窓の外に視線を戻した。自分の名前は言わなかった。
カイも聞かなかった。冷めた椀を下げて診療所を出る。外はもう藍色に沈みかけていた。




