ヒューゴの帳簿
ヒューゴの商隊がストーンクロスを発つ朝、カイは荷車のそばまで来ていた。
雪が、ちらついていた。灰の混じった、少し薄汚れた白だ。屋根にも、壁にも、荷車の幌の上にも、それが薄く積もりはじめている。管区の雪はもっと白い、とリオンが言っていたのを、なんとなく思い出した。本当かどうかは、知らない。カイは、管区の雪を、見たことがなかった。
昨日、弾と部品は、もう運び込まれた。礼を言いに来たわけじゃない。この男が去る前に、一度だけ顔を見ておきたかった。
市場は、まだ動き出す前だった。露店の木箱の多くは、布をかぶせたまま、雪を載せている。早起きの年寄りが一人、湿った薪に、何度も火打ちを擦っていた。煙は、なかなか立たない。どこかで、残殻の関節にグリスを差す音がする。低い金属の擦れだ。出立の支度を半分終えた商隊の荷車の、その音だけが、冷えた朝の市場に響いていた。
ヒューゴは、荷車の中で、帳簿をつけていた。
革張りの、分厚いノートだ。端が擦り切れ、角が丸まっている。何年も、繰り返し開かれてきた手触りだった。太い指がペンを走らせ、数字と短い字が、列になって連なっていく。
「朝早いな、ボウヤ」
ヒューゴは、帳簿から目を上げずに言った。
「見送りか。それとも、まだ何か売ってほしいのか」
「訊きたいことがある」
カイは、荷車の縁に手をかけた。冷えた木が、手のひらに刺さるようだった。
「あんたは、どの勢力にも、武器を売るのか」
ヒューゴは、否定しなかった。ペンを止め、帳簿を膝に伏せる。
「昨日、言ったろう。誰に何を売るかは、俺が決める。だが売るか売らんかで言えば――売る。金を積む相手にはな」
「それで、夜は眠れるのか」
ヒューゴが、笑った。声を上げて、腹の底から笑った。嫌味のない笑い方だった。
「眠れるさ。この灰域で、頭から布をかぶって寝るのに比べりゃ、罪悪感で眠れんなんてのは、ずいぶん上等な悩みだ」
言って、また帳簿に目を落とす。カイは、何も返せなかった。
ヒューゴの手が、次の記入をしようとしたところで、止まった。捲られたページが、カイの目に入る。
取引の記録ではなかった。数字も品名も並んでいない。代わりに、簡略な地図が描かれていた。灰域の東部だ。ストーンクロスの集落の印を真ん中に、いくつもの矢印が、西へ向かって引かれている。矢印のわきに、日付。その下に、兵力らしい数字。矢印は、慣れた手つきで、迷いなく引かれていた。
縁にかけたカイの手が、知らず、木を強く握っていた。
昨日、リオンが伝えてきた話と、同じ形をしていた。ハイドクロフト。エルグライン。三つの集落が片付けられ、本隊が、こちらへ近づいてくる。その進み方を、誰かが、先に読んで、線にしていた。
「商人の帳簿に、なんで、こんなものがある」
カイは、訊いた。
ヒューゴは、ページを隠さなかった。閉じもしなかった。
「情報も商品だ。弾と、変わらん。売る相手を、選ぶだけでな」
カイは、ヒューゴの目を見た。
細い目だ。いつも笑っている。だが、今、その奥は、笑っていなかった。何を見ているのかは、分からない。分からないまま、見ておいた。
ヒューゴが、帳簿を閉じ、コートの内側に滑り込ませる。荷車から、どっこいしょと地面へ降りた。護衛の傭兵が、出立の合図を待っている。
「ボウヤ」
ヒューゴが、カイの肩を、ぽんと叩く。大きな、厚い手だ。
「お前は、鉄殻に乗って戦う。それが、お前の戦場だ。けどな、戦は、鉄殻だけじゃ決まらん」
言いながら、自分のコートの内側――帳簿をしまったあたりを、軽く叩いてみせる。
「お前が操縦桿を握ってるあいだにも、こっちじゃ、別の勘定が動いてる。どの隊が、どこへ、いつ向かうか。それを先に知ってる奴がいる。知ってる奴に、銭を払う奴がいる。お前の戦場の、すぐ隣でな」
商隊が、動き出した。
無装甲の残殻が、荷を背負い直し、雪原に足跡を刻んでいく。一歩ごとに、関節が、低く軋む。右の膝のあたりから、規則正しい金属の音が、雪の中へ落ちていった。護衛の傭兵が左右を固め、ヒューゴが、その先頭を歩く。
カイは、その後ろ姿を、しばらく目で追う。だが、頭の半分は、まだ、あの帳簿の地図のページに引っかかっている。気づくと、商隊は、もう市場の縁を出ていた。雪が、足跡を、少しずつ埋めていく。
露店の布が、一枚、また一枚と、めくられはじめる。湿った薪に火打ちを擦っていた年寄りは、まだ、煙を立てられずにいた。市場が、いつもの朝に戻っていく。商隊のことなど、もう誰も見ていない。来たときと同じように、ヒューゴは、ただ通り過ぎる者として、去っていく。それだけのことだった。
弾は来た。明日の分は、ある。
だが、あの地図のページが、目の裏に残っている。ハイドクロフトの上を、定規も当てずに通った、ひと筋の線。
カイは、格納庫へ戻った。
ケストレルの前に立つ。傷だらけの装甲が、暗がりの中で、黙って立っている。
冷えた鉄に、手のひらを当てた。いつもと同じ温度で、鉄は、黙っていた。




