もう一つの浄化
アイリスからの暗号通信を復号し終えたとき、リオンの指が、キーの上で止まった。
通信室の小さなテーブルに、平文に直されたデータが並んでいる。リオンは、その文字列を二度読み返した。何度目を通しても、並びは変わらない。
何かの間違いであってほしかった。
ハイドクロフトだけでは、なかった。
セルヴィスの浄化部隊は、東の小集落を、一つずつ、片付けながら、こちらへ近づいてきている。ハイドクロフト。エルグライン。クレストリッジ。三つの名前が、同じ書式で、淡々と並んでいた。
アイリスの報告には、数字が、添えられていた。
ハイドクロフト、住民40名を拘束。エルグライン、55名。クレストリッジ、58名。建物は解体され、それぞれ、補給基地に、給水拠点に、通信中継所に、作り変えられている。
合計で、およそ150名。
「保護」という言葉が、その数字の頭に、貼りついていた。リオンは、その二文字を、指の先で、軽くなぞった。爪の先が、冷たいテーブルの上で、かさりと鳴った。
守るための言葉だ。その言葉で、人が、家から引き剥がされている。リオンも、昔は、こういう文書を読んだ。何も思わずに、下のほうに、判を押した。あの頃の自分なら、この百五十という数字も、ただの数字だった。
通信室は、寒かった。旧式の通信機が、低く唸りを上げている。その熱だけが、わずかに、手元を温めていた。リオンは、一度、目を閉じて、また開けた。
通信機のスイッチを入れ直す。
「保護された人たちは、どこへ送られるの」
リオンは、訊いた。握った通信機が、手のひらの中で、じっとりと汗ばんでいた。アイリスの返事を待つあいだ、雑音だけが、長く続いた。
アイリスの声が、固くなった。雑音の向こうでも、その変化は、はっきりと伝わってきた。
「フォートレスの、保護民居住区。外壁の内側に収容される。管区証は出ない。移動も、制限される。……それと、冴覚の素養がある子供は――」
そこで、通信が、途切れた。
ノイズが割り込み、暗号鍵の同期が、一瞬、外れた。数秒で戻ったが、アイリスは、続きを言わなかった。
言わなくても、よかったのだ。
その先を、リオンは、知っていた。冴覚児童回収計画。書類の隅で、何度も見た言葉だ。灰域の孤児に、教育と、屋根を与える――士官学校の教官は、そう言って、胸を張っていた。立派な施策だ、と。リオンも、頷いた。
その同じ言葉が、今は、まるで違う重さで、目の前にあった。
リオンは、自分の指先が、まだ、わずかに震えているのに気づいた。手のひらを、強く握り直す。それでも、震えは、すぐには止まらなかった。
リオンは、復号データを記憶媒体に移すと、通信室を出た。
廊下を、バートンの執務室へ向かって、足早に歩いた。報告しなければならないことが、ありすぎた。
* * *
バートンの執務室には、カイが、先に来ていた。
リントの偵察報告を、聞いた後なのだろう。机の前に立つカイの肩が、固く強張っている。壁際の鉄ストーブが、ぱちりと音を立てて、薪を爆ぜさせた。部屋の中だけは、かろうじて、暖かかった。
リオンは、アイリスから得たものを、二人に伝えた。三つの集落。150人。フォートレスへ送られること。そして、子供たちのこと。一つずつ、順を追って、できるだけ感情を交えずに話そうとした。それでも、声が、途中で、一度、上ずった。
話し終えると、部屋が、しんと静まった。
バートンの、もともと血色のいい顔から、すっと色が引いた。
「150人。三つの集落で、150人」
絞り出すような、低い声だった。
「子供まで、奪うのか。それが、奴らの言う『秩序』か」
リオンは、もう一歩、踏み込んで言うべきか、迷った。だが、言わなければ、伝わらない。
「浄化は、軍事だけが目的じゃないんです。冴覚の素養がある子供は……検査を受けて、鋳脈の候補に、組み込まれます」
カイは、黙って、聞いていた。
リオンは、その横顔を、見た。怒鳴り出すでも、机を叩くでもない。ただ、奥歯のあたりが、固く結ばれて、こめかみが、小さく動いていた。
「俺の親父は」
ふいに、カイが、口を開いた。低く、平らな声だった。
「俺を、そうさせないために、消えたんだ」
リオンは、何も言えなかった。
テオ・セヴァルも、冴覚を持つ鋳脈者だった。そして、息子にも、冴覚がある。もし、カイが幼いうちに「保護」されていたら――今ごろは、リーヴ・シェイドのように、コルヴァスの機体に乗っていた。
会ったこともない男だ。その父親が、何を抱えて、この何もない土地に留まったのか、リオンには、想像することしか、できなかった。
リオンの父、ケネスなら、迷わず、娘を士官学校へ送っただろう。それが子のためだと、信じて。現に、自分が、そう育てられた。守ってもらった、と思っていた。その同じ手が、テオには、息子を差し出す手に、見えていたのかもしれない。
バートンが、机に、両手をついた。
「この話は、灰域じゅうの集落に、伝えなきゃならん。セルヴィスの浄化が、何を意味してるか。子供が、連れていかれるってことを」
リオンは、頷いた。
「灰域だけじゃ、足りないと思います」
自分の声が、思ったより、低くなっているのに気づいた。
「セルヴィスの管区の人たちにも、伝える方法を考えないと。あの人たちは、自分の組織が、何をしてるのか、知らないんです。……知ろうと、しないだけかもしれませんけど」
言ってから、それは、昨日までの自分のことだ、と思った。口には、出さなかった。
バートンの目が、ぎらりと光った。
「焦土の声に、流せるか」
焦土の声。灰域で唯一の、定期の放送だ。タリアが中継を手配している、独立の放送局。
「タリアの通信網なら、灰域の集落には届きます。でも、管区の中までは、届かない」
リオンは、頭の中で、士官学校で叩き込まれた回線図を、手繰った。セルヴィスの管区通信は、軍が握っている。民間の周波数も、検閲を通る。正面から流し込めば、すぐに遮断されるだろう。
だが、抜け道が、まったくないわけでもなかった。気象観測用の、古い予備回線。誰も使っていない帯域が、いくつか、頭の隅に残っていた。在籍していた頃、保守の担当者が、よく愚痴をこぼしていた。あんな回線、もう何年も誰も見ちゃいない、と。
「……少し、時間をください。当たってみたいルートが、あります」
バートンが、太い眉を、わずかに上げた。それ以上は、何も訊かなかった。
「管区へ流すには、別のルートが要ります。アイリスと、相談してみます」
カイが、椅子から立ち上がった。
「やれることを、やる」
短い言葉だった。それだけ言って、カイは、執務室を出ていこうとした。
その背中に、リオンは、声をかけそうになって、やめた。
扉の手前で、カイが、一度だけ、足を止めた。
「リオン。あんたが、管区のほうを頼む。俺は、目の前の集落から、当たる」
振り返らずに、そう言って、カイは、出ていった。
灰色の冬空の下を、カイの背中が、格納庫へ向かって、小さくなっていく。それが建物の陰に消えるまで、リオンは、窓辺を動かなかった。
それから、机に戻り、紙とペンを引き寄せた。アイリスへの通信文を、組み立てなければならない。気象観測用の予備回線を使うとしても、まず、アイリス側で押さえてもらう必要がある。手順を、一つずつ、書き出していく。手を動かしていると、さっきまで震えていた指先が、少しずつ、落ち着きを取り戻してきた。




