ヒューゴの帳簿
ヒューゴの商隊がストーンクロスを発つ朝、カイは商隊の荷車のそばを訪れた。
雪がちらついていた。灰域の冬の雪は、管区の雪とは違うとリオンが言っていた。灰の混じった、少しだけ薄汚れた白。それが屋根や壁や、ヒューゴの荷車の幌の上に積もり始めている。
ヒューゴは荷車の中で帳簿をつけていた。
革張りの分厚いノート。端が擦り切れ、何度も開閉されてきた形跡がある。ヒューゴの太い指がペンを走らせ、数字と文字が連なっていく。
「朝早いな、ボウヤ」
ヒューゴは帳簿から目を上げずに言った。
「見送りに来たのか。それとも商売の話か」
「聞きたいことがある」
カイは荷車の縁に手をかけた。
「あんたはどの勢力にも武器を売るのか」
ヒューゴは否定しなかった。ペンを止め、帳簿を膝の上に置いた。
「俺は商人だ。金を払う相手に物を売る。それだけだ。セルヴィスにもグランヴェルトにも灰域にも、求められれば売る。敵味方は俺が決めることじゃない」
「それで夜、眠れるのか」
ヒューゴが笑った。声を上げて笑った。腹の底から出る、嫌味のない笑い方だった。
「眠れるさ。灰域で寝ることに比べたら、罪悪感で寝られないなんて贅沢な悩みだ」
カイは黙ってヒューゴを見ていた。ヒューゴの笑いが収まった。
「ボウヤ。聞きたいのはそんなことじゃないだろう」
ヒューゴが帳簿を開き直した。ページを捲る。取引の記録が細かく並んでいる。品名、数量、対価、日付、取引先。武器商人の帳簿だ。
だがカイの目が、あるページで止まった。
取引の記録ではない。地図が描かれていた。簡略化された灰域東部の地図。そこに矢印が引かれ、日付と兵力の概算が書き込まれている。
セルヴィスの灰域浄化作戦のルート予測だった。
「商人の帳簿に、なぜ軍事情報がある」
ヒューゴは帳簿を閉じなかった。隠す気がないのか、見せるつもりだったのか。
「情報も商品だ。売る相手を選ぶだけでな」
カイはヒューゴの目を見た。細い目の奥に、計算があった。だが計算だけではなかった。もっと古い何かが、その奥に沈んでいた。
「大崩落で俺の故郷は焼けた」
ヒューゴが言った。声のトーンが変わっていた。飄々とした商人の声ではない。
「旧中欧の小さな町だった。焼いたのはグランヴェルトだ。工業地帯を制圧する時に、周辺の町を巻き添えにした。俺は15歳だった。家族は死んだ。俺だけが生き残った」
カイは何も言わなかった。
「だがな、グランヴェルトにも武器を売る。恨みで飯は食えない。恨みで家族は戻らない。だが」
ヒューゴが帳簿を閉じた。
「利益の流れは、少しだけ操れる。誰に何を売り、誰に何を売らないか。情報を誰に渡し、誰に渡さないか。それだけで、世界の重心は微かに動く」
ヒューゴが立ち上がった。コートの襟を立て、荷車から降りた。護衛の傭兵が合図を待っている。
「ボウヤ」
ヒューゴがカイの肩を叩いた。大きな手だった。
「お前は鉄殻で戦う。それはお前の仕事だ。だが覚えておけ。戦争は鉄殻だけで決まらない。金と情報が動かしている。お前が操縦桿を握っている間にも、帳簿の中で別の戦いが起きている」
商隊が動き出した。無装甲残殻が荷物を背負い、雪原に足跡を刻んでいく。護衛の傭兵が左右を固め、ヒューゴが先頭を歩く。
カイはその背中を見送った。
武器商人。情報屋。どの勢力にも属さず、全ての勢力に商品を売る男。善人ではない。だが悪人でもない。灰域にも管区にも属さない場所で、帳簿一冊で世界の重心を動かそうとする男。
商隊の影が雪原に溶けていく。雪が足跡を少しずつ埋めていく。
カイは格納庫に戻った。ケストレルの前に立ち、操縦桿のことを考えた。
操縦桿を握るのが、カイの戦いだ。だが帳簿の中にも戦いがある。通信回線の中にも、交渉のテーブルの上にも。
戦場の外にもう一つの戦いがあることを、カイは知った。




