ヘルガの調査隊
ルイ・ヴェルデからの通信は、いつも前触れがなかった。
ケストレルの日常点検を終えて、カイが格納庫を出たところで、バートンの通信室から呼び出しがかかった。寒い廊下を走って向かうと、扉を開けた途端、煙草の匂いが鼻についた。ガルドが、先に来ていた。通信機の前にバートンの大きな背中があり、スピーカーから、若い女の声が、ざらついた雑音越しに流れている。受信状態が悪いのか、声は、ときどき途切れては、また戻った。
カイは、空いている椅子に腰を下ろした。木の座面が、冷たかった。点検で油にまみれた手を、作業着の腿で、二度ほど拭う。爪の間の汚れは、それくらいでは、落ちなかった。
「――確認した情報を共有する。グランヴェルトの灰域介入が、本格化している」
ルイの声は、相変わらず事務的だった。だが、その事務的な調子のまま、運んでくる中身が、重い。
「ヘルガ・キルシュが、研究チームを率いて灰域に入った。旧世界の研究施設を、調べて回っている。技術者が六名、護衛の汎殻が四機、補給車が三両。小規模だが、精鋭だ」
カイは、ヘルガ・キルシュという名前に、覚えがなかった。聞き返そうとして、ガルドのほうを見た。
ガルドの横顔が、固くなっていた。
咥えた煙草の先が、小さく揺れている。口元が、ほんのわずか、歪んだ。それきり、何も言わない。代わりに、バートンが口を開いた。
「目的は」
「二つ」
ルイの声が、続ける。
「一つは、テオ・セヴァルが隠した、ある設計データの探索。グランヴェルトが進めている計画には、テオが持ち出した分がどうしても要る。それがなければ、最後の仕上げができない。もう一つは、灰域に残る旧世界の技術遺産の回収」
テオが隠した、設計データ。
その一言で、カイの腹の底が、重くなった。父が、命と引き換えに隠したものだ。何の図面なのか、カイ自身、まだ知らない。だが、それが、父を殺すほどのものだったことだけは、知っている。
ふいに、テオの手のことを思い出した。図面を広げるとき、いつも、指の腹で、紙の皺を丁寧に伸ばしていた。あの手が隠したものを、顔も知らない連中が、寄ってたかって掘り返そうとしている。
握った膝の上で、カイは、知らず、手に力を入れていた。爪が、手のひらに、軽く食い込んだ。
通信が切れると、雑音だけが、しばらく部屋に残った。
カイは、ガルドに訊いた。
「ヘルガ・キルシュ。あんたの、知り合いか」
ガルドは、すぐには答えなかった。
吸いさしの煙草を、灰皿の縁で、ゆっくりと潰す。それから、新しい一本に火をつけた。赤葉の、辛い煙が、天井へ向かって、細く昇っていく。火のついた先を見つめたまま、ガルドは、低く言った。
「俺の後を継いだ、鋳脈研究の主任だ」
平らな声だった。あんまり平らで、かえって、その下に何か押さえつけているのが、分かった。
「元は、同僚でな。素子のハードを俺が組んで、神経信号を変換するほうを、あの女が組んだ。二人で、鋳脈を作った」
カイは、黙っていた。
この老人の過去が、また一つ、欠片を見せた。いつもそうだ。ガルドは、訊かれた分だけ、少しずつしか、こぼさない。
自分にも、口に出すと、膿んでくる場所が、いくつもある。テオのことで。
「あの女は、科学に善悪はない、と本気で信じてる」
ガルドは、煙を、長く吐いた。
「鋳脈者の体を、データとして、淡々と集める。泣きもしないし、迷いもしない。……俺より、たちが悪い」
最後のひと言だけ、声が、少し掠れた。
ガルドの、煙草を持つ指が、わずかに震えているのに、カイは気づいた。それが何なのかは、分からなかった。分からないまま、見ておいた。
何か言ったほうがいいのか、カイは迷った。だが、こういうとき、気の利いた言葉を返せるたちではなかった。結局、黙って、ガルドの次の言葉を待った。
「俺は、逃げた」
ガルドは、灰を落とした。
「あの女は、残った。残って、続けた。……俺が組みかけて、放り出したものを、あの女が、一人で、全部、仕上げた。……俺が逃げたから、あの女が、全部、背負う羽目になった」
言い終えて、ガルドは、口を閉じた。
それ以上は、何も言わなかった。カイも、訊かなかった。訊いたところで、この老人が、続きを話す気がないのは、横顔を見れば分かった。部屋の中は、しばらく、通信機の低い唸りだけになった。カイは、膝の上で組んだ手を、一度ほどいて、また組み直した。火の消えた灰皿から、焦げた匂いが、まだ細く立っていた。
バートンが、机に地図を広げた。
端が丸まろうとするのを、武骨な指で、四隅を押さえて留める。ストーンクロスを真ん中に置いた、灰域の地図だ。
「三方から、押されてる」
バートンの声は、低く、落ち着いていた。だが、地図を睨む目つきは、鋭い。太い指が、東を指す。
「東から、セルヴィス。浄化計画を前倒しにして、コルヴァスの本隊が、10日以内に来る」
指が、西へ滑る。
「西から、グランヴェルト。こっちは、まだ直接撃ってはこない。だが、あいつらが灰域で探してるものが見つかれば、力の釣り合いが、根こそぎ崩れる」
カイは、地図に目を落とした。
ストーンクロスは、灰域のほぼ中央にある。東西の古い交易路が、ちょうどここで交わっている。だから、人と物が集まる。だから、奪い合いの的にもなる。カイは、その交点で飯を食っている連中の顔を、いくつか思い浮かべた。
ガルドが、地図の一点を、指で押さえた。ストーンクロスの、南西。
「ヘルガの連中は、旧研究施設を、根城にしてるはずだ。ここから、120キロ。昔、俺がテオと一緒に調べた場所の、すぐ近くだ」
カイは、その指の先を見た。
地図の上では、何の変哲もない場所だった。旧世界の道が二本、交わっているところに、小さな印が一つ、打ってあるだけだ。ガルドの指が、その印の上で、ほんの少しのあいだ、止まっていた。それから、何でもないように、離れた。
「そこへ、行くのか」
「今は、無理だ」
ガルドは、首を横に振った。煙草を、灰皿に押しつけて、消す。
「だが、覚えておけ。あの場所は、いずれ、効いてくる」
あの場所、と言ったときだけ、ガルドの声が、ほんの少し低くなった。カイは、それ以上は訊かなかった。
バートンが、椅子に座り直した。大きな体の重みで、椅子が、ぎい、と鳴った。
「まずは、セルヴィスだ。グランヴェルトのほうは、当面、見張るだけにする。ルイに、定期で情報を流してもらう」
カイは、頷いた。
話が終わって、廊下に出ると、外の冷気が、まだ熱の残る頬を撫でた。背後で、通信室の扉が閉まる音がした。ガルドは、まだ中に残っている。すぐに、新しい煙草に火をつける気配がした。カイは、振り返らずに、歩いた。
格納庫へ戻る途中、カイは、足を止めて、ケストレルを見上げた。傷だらけの、鉄紺色の装甲。点検を終えたばかりの機体が、暗がりの中に、黙って立っている。
東から、セルヴィス。西から、グランヴェルト。
頭では、分かる。だが、地図の上の矢印みたいには、うまく並んでくれなかった。並べようとすると、テオの顔や、ガルドの震えていた指や、ストーンクロスで飯を食っている連中の顔が、ばらばらに割り込んできて、線がほどけてしまう。
カイは、装甲の冷たい鉄に、手のひらを当てた。
考えなければならないことが、多すぎた。カイは、しばらく、その冷たさを、手のひらで感じていた。それから、何ひとつ整理のつかないまま、格納庫の扉を、押した。




