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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio Yodaca
折れた天秤

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指令

リーヴ・シェイドは、味のしないコーヒーを口に運んでいた。

 野営地のテントの中。折り畳みのテーブルに地図が広げてあり、その端にマグカップが置いてある。湯気が、細く立ちのぼっていた。鼻には、焦げたような匂いが届く。だが舌に載せても、苦味も、酸味も、何も立ち上がってこなかった。ただ、温かい液体が、喉を下りていくだけだ。

 マグカップを包んだ左手にも、陶器の熱は、もう半分しか伝わってこない。小指から薬指にかけての皮膚を、湯気の温度が、素通りしていく。リーヴはそのことに、いちいち驚かなくなって久しかった。


 テントの入口の布が払われて、フィンが入ってきた。

「隊長。ダリオさんの隊が、後退したそうです」

 フィンの声には、棘があった。ラストヘイムでカイ・セヴァルにつけられた負けが、まだ、この少年の喉の奥でくすぶっている。リーヴはマグカップを、地図の上に置いた。

「報告を」

「ダリオさんの隊は、遊肢二基で制圧を試みました。ですが、ケストレルに近接まで詰められて、撤退。損傷は軽微ですが、部隊の消耗を見て、退いたと」

 ダリオが退いた。

 リーヴは、その一言を、口の中で転がした。あの男の戦い方は、知っている。遊肢で左右の退路を断ち、母機で正面から押す。教本の通りで、それゆえに、隙がない。崩しようのない盤面を、いつも先に作ってしまう男だ。

 その男が、間合いを詰められて、退いた。


「フィン」

 リーヴは、地図に目を落としたまま言った。ストーンクロスの位置を、指の腹で、軽く押さえる。

「お前は、カイ・セヴァルと戦いたいか」

 フィンは一瞬、黙った。それから、低く頷いた。

「負けたままは、嫌です。次は、負けない」

「負けないのと、勝つのは、違う」

 言ってから、リーヴは少し、言いすぎたかと思った。フィンの拳が、握られるのが、視界の隅に入った。だが、それ以上は、何も付け足さなかった。付け足したところで、この歳の自分が聞く耳を持たなかったことを、リーヴは覚えている。


 テントの外で、ナディルが歩哨に立っていた。

 布の隙間から、その後ろ姿が見える。灰色のコートの背中。風に、裾が小さくはためいていた。寒いだろうに、足踏みひとつせず、じっと、夜の向こうを見ている。リーヴと同じ、灰域の生まれの少年だ。歳のころも、両親を亡くした年も、近い。あの背中に、昔の自分を、つい重ねそうになる。

 ナディルの後頭部には、鋳脈のリレー素子を埋めた痕が、まだ赤く残っている。処置を受けてから、それほど間がない。遊肢二基は、まだ、手に馴染みきっていない。先日の調整でも、二番が、出した指示より半拍遅れて動いた。本人は、それを、ひどく気にしていた。「隊長は、いつ慣れましたか」とだけ、訊いてきた。リーヴは、慣れる、とは言わなかった。慣れるのではない。増えた分の感覚に、こちらが引きずられないよう、押さえつけているだけだ。その押さえ方を、あの子は、これから何年もかけて、自分の体で覚えるしかない。

 リーヴは、視線を地図に戻した。


 通信機が、鳴った。

 符丁を見て、リーヴは指を止めた。ケネス・アスフォードからの、公式回線だった。受信のスイッチを入れる。

「リーヴ隊長」

 雑音の向こうから、穏やかな声が届いた。穏やかだが、その底に、冷えた金属のような硬さがある。何度聞いても、この声の温度は、変わらない。

「灰域浄化計画を、前倒しにする。リオン・アスフォードの独断行動が、灰域の抵抗勢力を煽っている。先鋒として、ストーンクロスを制圧せよ。期限は、10日以内だ」

 リーヴは、答えた。

「了解しました」

 通信が、切れた。乾いたノイズが、しばらく尾を引いた。


 フィンが、リーヴの顔を窺っていた。

「リオンも、向こうにいるんですよね。リオンに会ったら、どうするんですか」

 リーヴは、少し間を置いた。マグカップの、もう冷めかけた熱が、左手の生きているほうの皮膚に、わずかに残っている。

「命令に従う」

 言葉は、それだけだった。フィンは、何か言いたげな顔をしたが、結局、敬礼して、テントを出ていった。


 一人になると、雑音の消えた通信機が、急に静かになった。

 リオンが、灰域にいる。

 リーヴは、椅子の背にもたれた。鋳脈を拒み、セルヴィスを離れ、灰域の側に立った。あの女は。

 その事実を、リーヴは、どう収めればいいのか、まだ分からずにいた。腹が立つ、というのとは少し違う。あの女が正しいのなら――そこから先を、リーヴは、毎度、考えるのをやめてしまう。考えれば、自分が十四で差し出したものの勘定を、はじめからやり直すことになる。それを、もう何日も、頭の隅に置いたまま、手をつけずにいた。


 リーヴは、左手を、目の前に持ち上げた。

 指先が、白い。小指は、もう温度を感じない。薬指も、近ごろ、似たようになってきた。

 十四のとき、鋳脈を受けた。

 四つで両親を灰域に奪われてから、10年。その10年のあいだ、何かを失うのが、ずっと怖かった。鋳脈は、その怖さに、蓋をしてくれた。遊肢四基。コルヴァスの隊長。最強の操手という呼び名。差し出したものの中身は、もう、数えない。

 それでも、と、リーヴは思う。指先を、握り込む。

 何も持たずに、ただ怯えていたあの頃よりは、ましだった。少なくとも、そう思うことに、している。


 テントの外に出た。

 夜の灰域。空は曇っていて、星は一つも見えない。冷えた空気が、頬を刺した。ナディルが、足音に気づいて、振り返る。

「隊長。何か」

「遊肢の、起動テストをする」

 銘殻のコックピットに、身を入れた。ハッチが閉じる。狭い闇の中で、計器が、順に灯っていく。後頭部で、鋳脈のリレー素子が、微かに熱を持ちはじめた。機体のセンサーが目を覚まし、世界が、外へ広がっていく。装甲の外の気温。風の向き。地面の硬さ。それらが、リーヴ自身の、体の感覚として、流れ込んできた。装甲の継ぎ目に積もった雪の冷たさまで、自分の皮膚のことのように、はっきりと分かる。生身の左手では、もう拾えない冷たさだった。

 舌で味わえないものも、左手で触れられないものも、ここでは、関係がなかった。


 遊肢、起動。


 肩のハードポイントから、四基の遊肢が射出された。推進ノズルが青白く灯り、夜空に、四つの影が舞い上がる。リーヴの感覚が、四つに分かれた。一番の位置。二番の姿勢。三番が捉える地表。四番の推進剤の残り。自分の両手の指の、その先に、さらに別の手が生えたようだった。リーヴは、その四本を、意識の端で、同時に動かす。バラバラに、それでいて、一つの体のように。何度繰り返しても、この感覚にだけは、慣れることがなかった。指が増える。世界が、四つぶん、広くなる。

 四基が、銘殻の周囲を旋回する。夜の空に円を描き、風を切る音が、低く響いた。

 リーヴは、生きているほうの右手で、操縦桿を、ひとつ、深く引いた。応えは、鋭い。機体が、思考の速さで、ついてくる。

「……これは、まだ、生きてる」

 誰に言うともなく、口の中で呟いた。声は、ヘルメットの内側で、すぐに消えた。

 四基の遊肢を、ゆっくりと、肩のハードポイントへ戻していく。一基ずつ、収まる感触が、後頭部の奥に返ってくる。最後の一基が嵌まると、分かれていた感覚が、また一つに畳まれた。世界が、もとの幅に縮む。

 ハッチを開けるまでの、わずかな闇の中で、リオンのことも、ケネスの声も、まだ、頭の隅に残っていた。だが、今夜は、そこに置いておくことにした。10日。それまでに、やることのほうが、多すぎた。

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