セーラの手紙
アイリスの定時連絡は、いつもの通り、戦況の数字だけで終わるはずだった。
コルヴァス本隊、ストーンクロス東方180キロを通過。到着まで、およそ6日。リオンは受信機に耳を寄せ、その数字を、暗号の手帳に書き取っていた。六日後、リーヴが、この集落に届く。乾いた報告の声を聞きながら、リオンの指先だけが、知らず、冷えていった。
報告は、そこで終わるはずだった。だが、アイリスは、最後に一言だけ、声の調子を変えずに付け足した。
「添付がある。鍵を、第二層に」
第二層。軍用の暗号とは別の、個人どうしの鍵。リオンが士官学校で暗号通信の訓練を受けていた頃、アイリスと二人で使っていた、古い鍵だ。教官に隠れて、くだらない悪口や、明日の試験の山を、この鍵で送り合った。子供じみた遊びだった。卒業して、別々の部隊に散ってからも、なぜか、どちらも、その鍵だけは捨てなかった。いつか、こんなふうに使う日が来ると、あの頃の二人は、思ってもいなかった。
リオンは、受信機のつまみに手をかけた。指が、わずかに、ためらった。第二層を使うということは、アイリスが、記録に残してでも、リオンに渡したい何かがある、ということだ。事務的なあの女が、そんな危険を冒すからには、よほどのことに違いなかった。
切り替える。ノイズの質が変わる。データが、ゆっくりと流れ込んでくる。
テキストが、一つ。
差出人は、母だった。セーラ・アスフォード――その名が、画面の隅に、小さく灯っていた。
リオンは、テキストを開いた。暗号の羅列が解けて、短い平文が、画面に浮かび上がる。
――リオンへ。
その三文字を見ただけで、母の声が、文字の上に重なって聞こえた。低くて、柔らかい声。父が留守の夜、寝る前に部屋へ来て、とりとめのない話をしてくれた、あの声だ。リオンは、画面に顔を近づけた。
――あの人は、あなたを連れ戻そうとするでしょう。私は知っています。あなたは、私に似ました。一度決めたら、止まらない。だから、止めません。
リオンは、息を詰めた。
――ただ、生きて。何があっても、生きていて。
発光する最後の一行を、目でなぞった瞬間、喉の奥で、吸い込んだ息が、硬くつかえた。
それだけだった。
続きを探して、リオンは何度も画面を上下させた。けれど、文字は、もう増えなかった。母らしい、と思った。
* * *
目の奥が、熱かった。けれど、涙は出てこなかった。出そうになって、寸前で、引っ込んでしまう。泣いてしまえば、少しは楽になるのかもしれない。それすら、今のリオンには、うまくできなかった。
ふと、ずるい、と思った。生きて、とだけ書いて、母は、暖かい部屋にいる。あの食卓に、椅子に、まだ座っている。こちらは、明日にも、雪の上で死ぬかもしれないのに。──そう思った自分を、すぐに、恥じた。母は、できることを、精一杯やったのだ。それは、分かっている。分かっていても、ほんの一瞬、母を恨みたくなる自分が、たしかに、いた。
リオンは、両手で顔をこすった。冷たい手のひらが、火照った目元を、少しだけ冷やした。それから、椅子の背に、深くもたれた。古い椅子が、ぎい、と鳴いた。通信塔を支える鉄骨が、外で、風に低く軋んでいる。その音を、しばらく、ぼんやりと聞いていた。
第二層の鍵。士官学校以来、限られた人間しか知らない、軍の私的な鍵だ。母は、それを覚えていた。退役して、もう十五年以上になるのに。
指先が、冷たくなった。これがどれだけ危ない橋か、リオンには、分かりすぎた。父が知れば、母はただでは済まない。それを承知で、母は、この手を使ったのだ。
生きて、と母は書いた。けれど、それは約束できない。明日にも、戦場に出るのだから。母の祈りにも、まっすぐには、応えられそうになかった。
リオンは、手紙のデータを、小さな記憶媒体に移した。
それから、通信機に残った受信記録のほうを、一つずつ、手順を追って消していった。母に累が及ばないように。痕跡を、何も残さないように。慣れた作業のはずなのに、今夜は、指が、何度ももつれた。一度、消す対象を間違えそうになって、手を止めた。深く息を吸って、もう一度、最初から確かめた。
すべて消し終えると、母の文字は、この爪の先ほどの金属の欠片の中だけに、残った。リオンは、それを、手のひらの中で、強く握りしめた。骨ばった、自分の指の節が、白く浮いた。
* * *
格納庫へ向かった。
暗がりの中に、トワの予備残殻が、ぬっと立っていた。ガルドが調整してくれた機体だ。足元には、昼間ガルドが削ったベアリングの鉄粉が、まだ掃ききれずに散らばっていた。煙草の吸い殻も、一本、転がっている。あの男は、何度言っても、整備のたびにこれをやる。リオンは、それを爪先で、隅のほうへ寄せた。
装甲は薄い。乗り込むたび、計器の半分が死んだまま黙っているのが分かる。それでも、この数日で、体のほうが、少しずつ、この不揃いな機体を覚えはじめていた。
ハッチを開けると、冷えた鉄と油の匂いが、顔にかかった。コックピットに身を入れる。狭い。ポラリスより、ひと回り窮屈な空間だった。操縦桿は、握ると、氷のように冷たかった。
リオンは、ポケットから記憶媒体を取り出した。爪の先ほどの、小さな金属の欠片。この中に、母の文字が入っている。手のひらに載せると、頼りないほど、軽かった。これが、今のリオンと、フォートレスを繋ぐ、ただ一本の糸だった。
計器パネルの影になる内壁に、それを当てる。整備用のテープを少しちぎって、二重に貼り、しっかりと留めた。指で、軽く押さえてみる。落ちない。外からは、まず、見えない場所だ。
ポラリスには、セルヴィスの紋章があった。胸の高さに、銀色の、立派な紋章が。この残殻には、何もない。傷だらけの、灰色の鉄板があるだけだ。
だから、ここに、置く。母の言葉を。指で、留めたテープを、もう一度、なぞった。口の端が、ひとりでに、わずかにゆがんだ。笑ったのか、泣きそうになったのか、自分でも、よく分からなかった。
内壁に留めた金属の欠片を、リオンは、しばらく見つめた。暗いコックピットの中では、それは、ただの黒い影にしか見えなかった。
「……母さん」
声に出すと、それは、思ったより、かすれていた。狭い操縦席の中で、その声は、行き場をなくして、すぐに消えた。
その先を、言おうとした。私はこうする、これが私の答えだ、と。けれど、言葉は、出てこなかった。コックピットの中の冷たい空気が、口を開いたまま黙り込んだリオンの喉を、すっと冷やしていった。
ただ、握った操縦桿だけは、たしかに、そこにあった。応答は、ポラリスほど鋭くない。それでも、引けば、動く。リオンは、その冷たい感触を、しばらく、手のひらで確かめていた。内壁に留めた、母の言葉の、すぐ隣で。
六日後。それまでに、この機体と、もっと馴染んでおかなければならない。生きていてと、母は書いた。だったら、せめて、生き延びる手だけは、増やしておきたかった。それくらいしか、母の祈りに、返せるものがなかった。
リオンは、操縦桿を、一度、大きく動かしてみた。関節が、遅れて、ぎこちなくついてくる。右腕の遅れは、まだ消えない。それを見越して、早めに、入力を戻す。何度も、何度も、繰り返した。指が、かじかんで、感覚がなくなってくるまで、繰り返した。夜明けまでには、まだ、少しだけ、時間が残っていた。




