ケネスの通信
通信室のスピーカーから、ざらついた雑音が流れ続けていた。
灰域の通信機は、旧世界の遺物を継ぎ接ぎしたものだ。ストーンクロスの通信塔が拾える周波数帯は限られていて、何を受けるにも、まずこの砂を噛むような雑音をかき分けなければならない。リオンは木の椅子に腰かけ、膝の上で手を組んで、その音を聞いていた。
通信士の若い男が、受信記録の紙を差し出してきた。指先がインクで汚れた、灰域生まれの少年だ。「アスフォードさん宛だ。正規の周波数で、暗号もなしに入ってきた。妙だから、念のため」。男は、なぜそんな通信が来たのか、よく分かっていない様子だった。リオンは紙を受け取る。発信元の符丁を見て、組んでいた指が、ひとりでに固くなった。
暗号通信ではなかった。
セルヴィスの正規周波数。公式回線。傍受されることも、記録に残ることも、初めから承知の上で開かれた回線だ。私的な内容を流す回線ではない。それを承知で、この回線を選んだ人間が一人だけいる。
発信者の名が、紙の隅に印字されていた。
ケネス・アスフォード。
父だった。
通信士の少年が、気を利かせたつもりか、「外、いますから」と言って、通信室を出ていった。扉が閉まると、雑音の音だけが、急に大きく聞こえた。
リオンは、しばらく、受信のスイッチに指をかけたまま、押せずにいた。押せば、父の声が聞こえる。セルヴィスを離れてから、一度も聞いていない声だ。何を言われるのか、見当はついていた。見当がついているからこそ、押すのが、怖かった。
それでも、リオンは、息を一つ吸ってから、スイッチを入れた。
「リオン」
雑音の向こうから、その一言が届いた。
父の声だ。低く、ゆっくりとした、聞き慣れた声。何年も、夕食の席で名を呼ばれてきた、あの声と同じだった。なのに、こうして雑音越しに聞くと、ひどく遠くから届いているように感じられた。実際、遠かった。雪原と廃墟をいくつも隔てた、別の世界から、父は娘を呼んでいる。
リオンは、自分でも気づかないうちに、背筋を伸ばしていた。父と話すとき、いつもそうなる。椅子に座り直し、両足を揃える。軍人だった頃の癖が、こんなときにも体に残っていた。
「帰って来い、リオン」
間があった。
「今ならまだ、間に合う。独断行動として処理してやれる。不名誉除隊で済む。経歴には傷がつくが、命は残る」
言葉に、無駄がなかった。怒鳴るでも、嘆くでもない。最も効率のいい落としどころを、最初から差し出してくる。――そうやって、この人は、大勢の人間を動かしてきた。
リオンは、口を開くまでに、少し時間がかかった。
帰りたい、と思う自分が、胸のどこかに、まだいた。温かい部屋。母の淹れたお茶。何も考えずに、ただ娘でいられた頃。父の言う通りにすれば、そこへ戻れる。一瞬、本当に、そのことを考えた。考えて、しまった。喉の奥に、苦いものが上がってきた。
「灰域浄化計画を、中止してください」
その一瞬を振り払うように、リオンは言った。言ってしまうと、喉の奥が、からからに渇いていた。
返事は、すぐには来なかった。
雑音だけが流れた。ひと呼吸、ふた呼吸。リオンは、その沈黙の長さを、組んだ指の関節が白くなるのを見ながら、ただ待っていた。父の沈黙は、いつも長い。何を考えているのか、娘にも、最後まで読めたことがなかった。
「それは、私の権限の外にある」
戻ってきた声は、さっきと同じ、穏やかな声だった。
「参謀長は、命令に従う。お前も、かつてはそうだった」
「義務で、人の暮らしを、潰すのですか」
声が、揺れた。抑えようとしたのに、抑えきれなかった。敬語の語尾が、途中で崩れかけた。組んでいた手が、膝の上で、知らないうちに握り拳になっていた。爪が、手のひらに食い込んでいた。
この通信室の壁の外には、ストーンクロスの集落がある。煮炊きの煙、削れたベアリングを叩き直す音、夜になると聞こえてくる子供の泣き声。父にとって、それは「権限」とか「義務」とかいう、乾いた言葉の向こうにある、顔のない数字なのだろうか。幼い頃に見た、あの机の上の地図。赤く塗りつぶされていた、ただの一区画。その赤の下で人が暮らしていることは、たぶん、父の勘定には、初めから入っていない。
誰もいない通信室だった。崩れかけた声を、抑えてくれる相手も、見られて困る相手も、もういなかった。
「リオン」
スピーカーから届いた声の端が、わずかに掠れていた。
いつもの硬さが、その一瞬だけ、たわんだ気がした。気のせいかもしれない。雑音のせいかもしれない。けれど、リオンの耳は、たしかにそれを拾った。
「お前のその正義感は、この世界では、贅沢品だ」
通信が、切れた。
乾いたノイズがしばらく尾を引いて、それから、通信室は静かになった。その静けさが、胸の奥のほうへ、重く沈んでいった。
* * *
リオンは、しばらく、通信機の前から動けなかった。
指先が冷たい。灰域の寒さのせいではなかった。体の内側から、ゆっくりと冷えていくような感覚だった。組んだ手をほどいて、自分の手のひらを見る。震えていた。止めようとして、止まらなかった。
話は、通じなかった。
いや――通じた上で、父は首を振った。聞き分けのない相手なら、まだ諦めようもあったのに。
あの最後の、わずかに掠れた声。あれが父の答えだったのか、それとも、ただの雑音だったのか。リオンには、もう確かめようがなかった。
通信室の扉が、軋みながら開いた。
カイが立っていた。手に、湯気の立つカップを二つ持っている。それを見て、いつから外にいたのだろう、と思った。たぶん、話が終わるのを、外で待っていたのだ。
「親父と、話したのか」
カイの声は、静かだった。
「ええ」
リオンは頷いた。それ以上の言葉が、すぐには出てこなかった。
カイは何も訊かず、リオンの隣の椅子に、音を立てずに腰を下ろした。カップを一つ、リオンの手元に置く。いつもの、土臭い煮汁だった。リオンは、それを両手で包んだ。掌が冷えきっていたぶん、その温かさが、痛いくらいに沁みた。
何か言ったほうがいいのか、それとも何も言わないほうがいいのか、カイは決めかねているようだった。膝に肘をついて、前かがみに座って、何度か口を開きかけては、結局やめた。その黙り方が、リオンには、かえってありがたかった。気の利いた言葉をかけられていたら、たぶん、もう、もたなかった。手の中のカップを、強く握りしめた。
二人は、しばらく黙って座っていた。
リオンは、カップの温かさだけを、手のひらに感じていた。
ふと、横を見た。カイは、自分のカップに口をつけず、ただ前を見ていた。この少年も、早くに父親を亡くしている。それが、自分の今夜の痛みと、似ているのか、まるで違うのか、リオンには分からなかった。たぶん、訊いても、カイ自身にも、うまくは言えないのだろう。
「でも」
リオンは、口を開いた。自分の声が、思ったより落ち着いているのに、少し驚いた。
「声は、聞けた。それだけは、よかったと思う」
言ってから、ひと呼吸置いて、付け足した。
「次に会うのは、たぶん、戦場でしょうけど」
カイは、それにも、何も言わなかった。
ただ、自分のカップを、ゆっくりと傾けただけだった。
よかった、と思う一方で、それでも、父の最後の声が、まだ耳の奥に残っていた。贅沢品だ、と父は言った。あの言い方を、リオンは、許せるとも、許せないとも、まだ決められずにいた。たぶん、当分は、決められない。雑音だけが、誰もいない回線を、流れ続けていた。




