管区の食卓
食堂は、人の熱でほんの少しだけ暖かかった。
旧世界の倉庫を改修した広い空間に、長い板テーブルが三列。天井から吊られたランタンが、煤けた光を落としている。壁際の竈で大鍋が煮えていて、立ちのぼる湯気が、低い天井のあたりで白くわだかまっていた。雑穀の煮える、土臭いような匂い。リオンは列の最後尾に並んで、自分の番が来るのを待った。
ハンナが、長い柄杓で粥を掬っていた。
大柄な女だ。腕まくりした前腕に、調理の火傷の痕が古いものから新しいものまでいくつも走っている。柄杓を握る手つきに、迷いがない。器を差し出すと、なみなみと一杯、注いでくれた。
「ほら。熱いから気をつけな」
受け取った木の器から、凍えていた指先に、鈍い熱がじんと伝わってきた。
それだけで、少しだけ、息がつけた。
空いている席を探した。
壁際に一つ空きがあった。先に座っていた老人が、少し詰めて場所を作ってくれる。礼を言って腰を下ろすと、板の長椅子が、座った重みで小さく軋んだ。テーブルの天板には、何年ぶんもの汁の染みと、匙でつけたらしい細かい傷が、無数に重なっている。フォートレスの食卓には、染み一つなかった。指でなぞると、その凹凸が、爪の先に引っかかった。
器を置き、木の匙を取る。匙も、誰かが使い込んだもので、柄の握るところだけ、艶が出るほど滑らかになっていた。前にこれを使っていた人間の手の癖が、そのまま木に残っているようだった。
雑穀と乾燥豆の粥だ。色は灰色がかった白で、見た目には、何の飾りもない。ひと匙すくって、口に運ぶ。すり潰しきれていない穀物の粗い粒が、歯のあいだでざらりと潰れた。味は、塩だけ。それ以外には、何もない。
それでも、温かいひと匙が喉を下りていくと、芯まで冷えていた腹の底が、内側からゆっくりとほどけていくのが分かった。一日、雪の格納庫で残殻の試運転をしていた体に、その温度が、思いのほか深く沁みた。リオンは、もうひと匙すくった。フォートレスの食卓に出せば、誰も匙を取らないだろう。そう思いながら、手は止まらなかった。
向かいの席に、ハンナが自分の器を持って座った。
ふうふうと息を吹きかけてから、ひと口すする。それから、リオンの手元をちらりと見た。
「あんた、いい食べ方するね」
「……そう、ですか」
「がっつかないのに、残さない。育ちがいいんだろ」
リオンは匙を止めた。図星だった。フォートレスの食卓には、いつも、こういう食べ方を躾けられた。背筋を伸ばして、音を立てずに、最後まできれいに。母のセーラが、よくそう言った。もう少し食べなさい、明日の訓練に備えて――。
その声が、ふいに、耳の奥でよみがえった。
白いテーブルクロス。焼きたてのパンの匂い。バター。湯気の立つスープ。管区の農業地帯から運ばれてくる林檎が、ガラスの器に山と盛られていた。あれが当たり前で、毎日そこにあって、リオンは一度も、それを贅沢だと思ったことがなかった。
今ここにある一杯の粥と、あの食卓の何もかもが、同じ「食べる」という言葉でくくられているのが、うまく信じられなかった。
「どうした。手が止まってるよ」
ハンナの声で、我に返った。
「いえ。……塩のほかに、何も入っていないのに、不思議と、食べられるなと思って」
言ってから、失礼だったかと思った。けれどハンナは気を悪くするふうもなく、低く笑った。
「そりゃそうさ。腹が減ってんだから。それに」
ハンナは、湯気の向こうの食堂を、柄杓で示すように見渡した。三列のテーブルに、灰域の人間が肩を寄せ合って座り、同じ灰色の粥を食べている。誰も贅沢を言わない。明日の天気のこと、削れたベアリングのこと、子供が熱を出したこと。低い声が、あちこちで途切れずに続いていた。
「一人で食うより、こうやって食ったほうが、塩味でもいける。それだけのことだよ」
大した話ではない、という口ぶりだった。リオンは、もうひと匙、口に運んだ。さっきと同じ、塩だけの味のはずだった。けれど、なぜだか、少しだけ違って感じた。
隣の老人が、空になった器を置いて、ゆっくりと立ち上がった。腰を伸ばすのに、片手を卓について、ひと息つく。ハンナが鍋のほうから「明日も来なよ」と声をかけ、老人は片手を上げて応えた。毎日、こうしているのかもしれない。あるいは、今日だけのことかもしれない。リオンには、判じようがなかった。
誰も、明日のことを口にしない。東からセルヴィスが来ている。それを、ここにいる全員が知っているはずだった。それでも匙の音と低い話し声は、途切れずに続いている。リオンは、その輪の中で、自分だけが少し息を詰めているのに気づいた。匙を持つ手に、無駄な力が入っていた。一度、肩を落として、力を抜いた。
ハンナが立ち上がって、鍋のほうへ戻っていった。
入れ替わるように、カイが器を持って、リオンの隣にどさりと腰を下ろした。
戦の支度で一日中走り回っていたのだろう。頬に油の汚れがついたまま、無造作に匙を突っ込んで、粥をかき込んでいく。あっという間に器の底が見えて、最後の一粒まで、匙の縁で攫って食べた。フォートレスなら、誰かに眉をひそめられる食べ方だ。なのに、見ているうちに、リオンの腹のほうが、小さく鳴った。
「足りるの、それで」
「足りるわけねえだろ」
カイは口の端をぬぐった。
「でも、ここのは一杯までって決まってる。お代わりしてえなら、明日も生きてろってことだ」
冗談なのか本気なのか、判じかねる言い方だった。リオンは、自分の器にまだ半分残っているのに気づいた。
「半分、いる?」
言ってから、自分でも意外だった。フォートレスの食卓で、自分の皿のものを誰かに分けようと思ったことが、あっただろうか。
カイは少し驚いた顔をして、それから、首を横に振った。
「いらねえよ。お前が食え。明日、お前が乗るんだ。腹が減ってちゃ、機体は動かせねえぞ」
言われて、リオンは少し意外に思った。
「あなたも、明日は乗るでしょう」
「俺はいい。腹が減ってるくらいのほうが、頭が冴える」
「それは、強がり?」
カイは一瞬、言葉に詰まった。それから、ばつが悪そうに鼻の頭を掻いた。
「……半分は、な」
その正直さが、リオンには少しおかしかった。油の汚れのついたままの横顔を、もう一度だけ、見た。
それきり、カイは黙っていた。
リオンは、残りの半分を、ゆっくりと食べた。塩しかない、灰色の粥。隣で、器の底を匙でなぞる音が、急かすでもなく続いていた。ただ、そこにいる音だった。
器の底が、見えた。
リオンは匙を置き、両手で器を包んだ。まだ、ほんのりと温かい。その温もりが、手のひらから、また体のほうへ戻ってくる。
「ごちそうさま」
誰にともなく、小さく口に出していた。フォートレスでは、こんなことを言った覚えがなかった。出てくるのが当たり前で、わざわざ礼を言う相手も、思いつかなかったから。
カイが横目でこちらを見て、何か言いかけて、結局、何も言わなかった。
ただ、二人ぶんの空の器を重ねて、立ち上がりざまに、リオンの器も一緒に持っていった。その背中を、リオンは見送った。竈の火が、まだ赤く燃えている。ハンナが、次の鍋を火にかけているところだった。重い寸胴を、火傷の痕の浮いた腕で、よいしょと持ち上げる。明日の朝の、粥だ。
リオンは、自分の両手に目を落とした。砂埃とグリスで汚れた手を、しばらく、開いたり閉じたりしていた。指の節が、もう、かじかんではいなかった。立ち上がると、長椅子がまた小さく軋んだ。外へ出る扉の隙間から、冷えた夜気が、足元に細く流れ込んできていた。




