父の机
戦闘の後の夜は、静かすぎた。
リオンはストーンクロスの壁の上に座り、膝を抱えていた。コックピットに籠もる気には、なれなかった。あの狭い空間にいると、今日の照準器の感触が、何度も蘇ってくる気がした。冷えた夜気のほうが、まだましだった。眼下では、見張りの焚き火が一つ、ぽつんと燃えている。それ以外、集落は寝静まっていた。戦いの後の夜なのに、誰も騒がない。灰域の人間は、勝っても負けても、ただ静かに次の日に備える。それが、この土地の流儀らしかった。
壁の上に、足音が二つぶん近づいてきた。
リオンが顔を上げると、カイが湯気の立つカップを二つ持って、慣れた様子で登ってくるところだった。戦闘の後だというのに、足取りに気負いがない。この少年にとって、戦いの後の夜は、特別なものではないのかもしれない。それとも、特別だからこそ、こうして誰かのところへ来るのか。リオンには、判断がつかなかった。
「眠れないのか」
カイは訊きながら、リオンの隣に、少し間を空けて腰を下ろした。片方のカップを差し出してくる。受け取ると、温かさが、冷えた手のひらに染みた。雑穀の煮汁だ。灰域では、これをコーヒーの代わりに飲む。最初は土臭くて飲めなかったが、最近は、悪くないと思う。
しばらく、二人とも黙って煮汁を飲んでいた。気詰まりな沈黙ではなかった。
「今日は、助かった」
ふいに、カイが言った。
「お前たちが側面にいてくれたから、ダリオも下手に動けなかった。正面の俺だけだったら、もっと押し込まれてた」
「私は、何もしていない。引き金も引かなかった」
照準器の先に、ダリオの部隊を捉えたあの瞬間。指に残った感触が、まだ消えない。あの灰青の機体に乗っていたのは、ほんの数か月前まで、味方と呼んでいた人間たちだった。撃たずに済んだことに、ほっとしている。同時に、いざとなって本当に撃てたのかと、自分を疑う自分もいる。
「いるだけで意味があるんだよ、ああいうのは。数ってのは、それだけで圧になる」
カイは、慰めるふうでも、世辞でもなく、ただの事実のように言った。リオンは煮汁を一口飲んだ。土臭さが、今夜は少しだけ、違う味に感じた。
「あなたは、怖くないの。明日また、もっと強い相手が来るかもしれないのに」
「怖いに決まってんだろ」
カイは、即座に返した。
「怖いから、今こうして温かいもん飲んでる。明日のことは、明日考える。それでいい」
その単純さが、リオンには、少しだけ羨ましかった。
「あなたにとって、セルヴィスは何」
訊いてから、唐突すぎたかと思った。だが、訊かずにいられなかった。
カイは、少し考えるように煮汁をすすった。吐いた息が、白く広がる。
「知らねえよ。会ったこともない国だ。でも、お前はそこから来た」
「それは、答えになっていない」
「お前自身が答えなんじゃねえの。知らねえけど」
カイは、本当に何でもないことのように言った。それから、思い出したように付け足す。
「うちの親父も、よく言ってた。考えすぎる前に、まず手を動かせって。生きるか死ぬかの土地じゃ、考えてる暇に死ぬからな」
「お父さんの話、初めて聞いた」
「……別に、たいした話じゃねえよ」
カイは少し口ごもって、視線を夜空に逃がした。父親のことを訊かれるのは、慣れていないらしい。リオンは、それ以上は訊かなかった。煮汁の湯気が、二人のあいだで細く立ち上っては、消えていく。誰にでも、すぐには触れられない場所がある。リオンにとって、それが父の書斎だった。
リオンは、夜空に目を戻した。
セルヴィス。その名を口にすると、いつも一番に、父の書斎が浮かぶ。
* * *
幼い頃、一度だけ、父の書斎に忍び込んだことがある。
いつもは鍵がかかっているのに、その夜は開いていた。家の中で唯一、立ち入りを許されない場所。だからこそ、漏れる灯りが、たまらなく魅力的に見えた。
暗い木目の家具で揃えられた部屋。煙草と、インクと、古い紙の匂い。壁には、額装された大きな地図が掛かっていた。机の上には、報告書の束と、広げられた大判の地図。インク壺と、使い込まれたペン。何もかもが、隙なく整然と並んでいた。父そのもののような部屋だった。
その大判の地図の一角が、赤いマーカーで塗りつぶされている。灰域。ストーンクロスも、アイアンウェルも、その赤の中にあった。
子供心に、その赤が、なぜか恐ろしかった。何かを、塗り消そうとしているように見えたからだ。塗られているのが、ただの紙の上の色だとは、どうしても思えなかった。
そこへ、父のケネスが帰ってきた。叱られると思って、身をすくめた。けれど父は、怒らなかった。リオンを抱き上げ、膝に乗せて、地図を指でなぞってみせた。
「ここは何、お父さま」
「ここは、秩序の外にある場所だ」
大きな手が、リオンの頭を撫でた。父の手は、いつも温かかった。普段は家にほとんどいない父が、こうして触れてくれることは、めったになかった。
「いつか、あそこも秩序の中に入れる。そうすれば、あの場所の人間も、安全に暮らせるようになる」
その時のリオンは、父が正しいと信じて疑わなかった。父は大きくて、強くて、難しい言葉を使い、大勢の人を率いていた。父が言うのだから、正しい。それだけで、十分だった。
* * *
「セルヴィスが、何なのか」
リオンは、ぽつりと口に出した。カイが、横目でこちらを見る。
「私の父は、参謀長だった。灰域を浄化する計画の、中心にいる人」
言葉にすると、胸の奥が、ざらりとした。
「子どもの頃、父の地図を見たことがある。灰域が、赤く塗られていた。父は言った。秩序の外にある場所だ、いつか秩序の中に入れる、って」
「それで、入れられた側が、これか」
カイが、煮汁の残りを揺らしながら言った。皮肉でも、責めるふうでもない。ただ、自分たちの暮らす土地を、見渡すように。
「……そう。父は、ここを更地にしようとしている。本気で、それが正しいと信じて」
言葉にすると、喉の奥が、ひりついた。父を悪人だと言い切れたら、どんなに楽だろう。けれど、リオンには、それができない。父は、家ではいつも疲れていた。母の淹れたお茶を飲んで、たまにリオンの頭を撫でて、また書斎に消えていった。あの背中が、何万もの暮らしを塗り潰そうとしている男のものだとは、子どものリオンには、どうしても結びつかなかった。今でも、半分は、結びつかないままだ。
あの赤の下に、何があるのか。父の机の上のマーカーは、その下で暮らす人間の顔を、一つも知らなかった。今日すれ違った見張りの男も、煮汁を分けてくれるこの少年も、あの赤の、ただの一部だった。
父の手の温もりは、嘘ではなかったと思う。それは、今でも。けれど、その同じ手が、この赤を引いた。その二つが、リオンの中で、どうしてもひとつに繋がらない。繋げたくないのか、繋げられないのか、それすら、もう分からなかった。
自分の手を見た。砂埃と、残殻のグリスで汚れている。フォートレスにいた頃の、手入れの行き届いた手とは、別物だった。軍人の手では、もうない。かといって、灰域の人間の手にも、なりきれていない。どちらでもない、宙ぶらりんの手だった。
「私は、もう戻れないかもしれない」
吐き出した声に、自分でも意外なほど、震えはなかった。
隣のカイは、何も言わなかった。ただ、ゆっくりと、自分のカップを傾けただけだった。その沈黙が、なぜか、今夜はひどく楽だった。




