最古参
雪原が、白く広がっていた。
カイはケストレルのコックピットで、東の地平線を睨んでいた。風が地面の雪を巻き上げ、白い靄が足元を流れていく。寒い。コックピットの中まで、冷気が忍び込んでくる。手袋の中で、指を一度握って、開いた。動く。大丈夫だ。
通信機が鳴った。リントの声。
「カイ。東方三キロ、三機編隊。先頭が大型。遊肢らしき影が二つ」
「ダリオか」
「間違いない。来たぞ。気をつけろ、あいつの遊肢は二本とも生きてる」
リントの声は、いつもより硬かった。偵察で、敵の編成をその目で見てきたのだろう。
カイはスロットルを上げた。ケストレルが雪を蹴って前に出る。背部のスラスターが点火し、白い蒸気が尾を引いた。来る。いよいよ来る。腹の底が、ぎゅっと縮んだ。
隣に、リオンの残殻が並んでいるはずだった。だが、リオンはリントたちと組んで、側面から回り込む手筈になっている。最初の正面は、カイ一人だ。一人で、最古参を食い止める。できるのか。考えるな。やるしかない。リオンが側面に着くまで、保たせるんだ。
* * *
雪原の向こうに、灰青色の機影が現れた。
先頭は、肩に見慣れない出っ張りを背負った汎殻だった。あれが遊肢の懸架ユニットか。ダリオの専用機。後ろに二機、護衛が従っている。
距離が詰まる。ダリオの機体が、ぴたりと停止した。無駄のない、落ち着いた止まり方だった。場数を踏んだ機体の動きだ、と一目で分かる。肩のユニットが開いて、二基の遊肢が左右に射出される。扁平な影が、母機の脇に弧を描いて浮かんだ。
二つの腕。母機を入れて、相手は実質、三つの間合いを同時に操ってくる。話には聞いていた。だが、目の前にすると、その厄介さが肌で分かった。
空気が、変わった。
ふっと、色が引いていく。白い雪原も、灰青の機体も、遠くへ沈んでいく。耳の奥から、戦場の音が消えた。残ったのは、自分の心臓の音と――敵機が放つ、微かな兆しだけ。
来る。母機の重心が、右へ動いた。左の遊肢に指示を出す前動作だ。
だが、それだけだ。遊肢そのものは、母機とは別の手で動いている。母機の兆しを読んでも、二本の腕の軌道までは読み切れない。色のない世界の中で、その二つの影だけが、どこへ動くのか分からなかった。
左の遊肢が弧を描いて、ケストレルの右側面に回り込む。同時に、右の遊肢が頭上へ。退路を断つ気だ。そこへ母機が正面から距離を詰めてくる。
くそ、教科書通りか。左右を腕で塞いで、正面から押し潰す。隙がない。リオンが言っていた通りの戦い方だった。
ガルドの声が、頭をよぎる。
――遊肢の操手を狂わせるか、母機と遊肢の連携を切るか。どちらかだ。
正面からまともに受けたら、押し潰される。なら、地形だ。灰域で生き延びる戦い方は、これしか知らない。
カイは操縦桿を倒し、ケストレルを左へ跳ばした。雪原の左手に、旧世界の建物の残骸がある。崩れかけた壁が、まだ立っていた。子どもの頃から、この辺りの廃墟は遊び場だった。どの壁が崩れやすいか、どこに身を隠せるか、体が覚えている。
ケストレルが、その壁の影に滑り込んだ。
背中に回り込もうとしていた右の遊肢の射線が、壁に遮られる。壁を挟めば、腕は直接撃てない。迂回するか、上を越えるしかない。その一手間の分だけ、敵の動きが鈍る。たとえ半拍でも、こっちには大きい。
母機が突っ込んできた。壁の向こうへ回り込もうとしている。
そこだ。壁の角を回る瞬間、母機は遊肢の援護が切れる。一瞬だけ、ダリオは一人になる。読んでいた。
ケストレルが、壁の角から飛び出した。
左前腕のヴェスペが火を噴く。連射が、ダリオの機体の正面を叩いた。牽制だ。目を引きつけておいて、本命は右手。短銃身のファルケが、太い弾を吐く。
弾は、ダリオの右肩の装甲に直撃した。重い手応え。だが、抜けない。分厚い正面装甲が、弾を受け止めていた。
ちっ、硬い。ファルケの残弾も、もう半分を切っている。長引かせれば、こっちが先に弾切れだ。一発で仕留められる距離まで、踏み込むしかない。
ダリオは、慌てない。母機を半歩だけ下げて、遊肢に指示を送ろうとする。さすが最古参、と思った。この程度の不意打ちでは、崩れない。
その時だった。
ダリオの動きが、ほんの一拍、止まった。
何かに気を取られている。味方と通信でもしているのか。理由は分からない。ただ、あれほど淀みなかった兆しが、今、明らかに乱れた。色のない世界の中で、その綻びだけが、はっきりと見えた。
ここしかない。
遊肢が軌道を直すより早く、ケストレルがダリオの懐へ飛び込んだ。距離が一気に潰れる。この間合いなら、腕は使えない。母機と、刀一本の勝負だ。
鍛翼刀を抜く。片刃の長い刀身が、冬の光を鈍く弾いた。ダリオも反応した。残った右腕で、刀を受け止めようと動く。だが、半拍遅い。聞こえなかった通信を、まだ気にしている。その一瞬の迷いが、命取りだった。
一閃。
手応えは、薄かった。装甲を断つというより、関節の隙間を狙って滑り込ませた感触。それでも、十分だった。ダリオの機体の左腕が、肩の付け根から落ちる。雪の上に、鈍い音を立てて転がった。
その瞬間、世界に色が戻ってきた。音が、戻ってくる。スラスターの唸り。風の音。自分の、荒い呼吸。
同時に、こめかみの奥で、鈍い脈動が始まった。あの研ぎ澄まされた感覚を使うと、いつもこうなる。長くは保たない。頭の芯が、熱を持って軋む。今のうちに、決めなければ。
だが、ダリオは隙を見せなかった。即座に退く。遊肢二基を素早く収容し、後退する。護衛の二機が射撃で援護し、撤退を助けた。腕を一本失ってなお、退き際の判断に乱れがない。カイは、追わなかった。追えば、収容した二基の遊肢に横から食われる。それくらいは、分かった。
* * *
セルヴィスの追撃隊が、雪原の向こうへ消えていった。
カイはコックピットで、長く息を吐いた。操縦桿を握る手が、震えている。終わってから来る、体の芯の震えだった。
勝った。
はずなのに、胸の奥が、どろりと冷えたままだった。
あの一拍の綻びがなければ、踏み込めなかった。あの綻びが何だったのか、カイには分からない。ただ、最初から最後まで、まともに撃ち合って勝ったという気が、まるでしなかった。相手の何かが、勝手に崩れた。その隙に、滑り込んだだけだ。
もしあの綻びがなければ、今ごろ雪の上に転がっていたのは、自分の機体の腕だったかもしれない。そう思うと、勝ったという実感が、するりと指の間から逃げていく。
こめかみの奥が、まだ脈打っていた。今日は、いつもより長く残りそうだった。手袋の中で、指先がまだ細かく痙攣している。これが、勝ったということなのか。カイには、よく分からなかった。
リントの通信が入った。
「カイ、無事か」
「ああ」
「追撃隊は退いた。ダリオは左腕をやられたが、本体は無事だ。再編して、また来るかもしれん」
カイは、東の空を見た。
追撃隊の、その後ろ。あの白い地平線の向こうに、セルヴィスの本隊がいる。一機退けたところで、次が来る。それも、もっと厄介なやつが。震える指を、もう一度、強く握り込んだ。それでも震えは、すぐには止まらなかった。




