ダリオ・メイスの耳鳴り
灰域の夜は、不気味なほど音がない。
リーヴ・シェイドは銘殻のコックピットで目を開けた。
眠ったつもりはなかった。ただ目を閉じていただけだ。最近は、深く眠れる夜が減った。鋳脈のせいなのか、年のせいなのか、それとも別の何かなのか。リーヴ自身にも、もう判別がつかない。
ハッチの隙間から外を見やる。白い雪原の上に、セルヴィスの浄化部隊が陣を敷いていた。汎殻が整然と並び、無人のアサルト・ドールが、号令を待って黙りこくっている。火を焚いているのは、人間の班だけだ。機械は寒さを感じないし、文句も言わない。
本隊は後方に控え、前線には、ダリオの追撃隊が先行している。明日、最初にストーンクロスへ届くのは、ダリオたちだ。
通信回線を開いた。
「ダリオ。進捗を」
数秒の間があった。それから、ダリオの声が返ってくる。
「ストーンクロスまで、残り40キロ。明日の午後には接触圏に入る」
声の底に、細かなノイズが混じっていた。通信機のせいではない。リーヴには分かる。ダリオ自身の耳が、もう半分は壊れている。高い音が、四六時中、頭の中で鳴り続けているのだ。鋳脈の代償だった。
あの男は、それを一度も口にしない。聞こえないふりをして、聞こえる範囲で完璧に仕事をする。リーヴはそれについて、何も言わなかった。言えば、ダリオの矜持を踏むことになる。
「了解した。くれぐれも、無理はするな」
「無理は、とうの昔に過ぎてますよ」
ダリオが、低く笑った。その笑いにも、ノイズが混じっていた。
「了解。明日、片をつけます」
通信を切った。
ダリオ・メイス。コルヴァスで、リーヴより長く戦場にいる男だ。遊肢の使い方に派手さはないが、どこにも穴がない。気づけば相手の退路が塞がっている。そういう詰め方をする。部隊を動かす腕は、正直、リーヴより上かもしれなかった。
だが、あの男の体は、もう限界が近い。耳だけではない。動きの端々に、わずかな遅れが出はじめている。それでもダリオは前線に立つことをやめない。退くという選択肢が、最初からないかのように。
なぜそこまでするのか。退けばいいものを。そう思いかけて、リーヴは口の中で苦いものを噛んだ。本当は、分かっていた。分かりたくは、なかった。
* * *
テントの方から、フィンが雪を踏んで歩いてきた。
「隊長。あの残殻乗り、ストーンクロスにいるんですよね」
顔を見れば、何を言いに来たかは分かった。あの灰域の少年に一度敗れて以来、この男はずっとそのことに囚われている。
「ああ」
「次は、負けません」
その目には闘志があった。だが、それだけではない。底のほうに、焦りが沈んでいる。焦った人間が戦場でどうなるかは、嫌というほど見てきた。
忠告すべきだった。隊長として。
だが、口は開かなかった。フィンのその目を、リーヴはどこかで知っている。ずっと昔、何も持っていなかった頃の、自分の目に似ていた。負けたくない。見下されたくない。そういう必死さだけで前に出ていた、あの頃の。だから、止める言葉が出てこなかった。
「気をつけて行け」
結局、それだけ言った。フィンは少し物足りなさそうな顔をして、それでも頷いて、テントへ戻っていった。その背中を見送りながら、リーヴは小さく息を吐いた。隊長失格だな、と思う。
焚き火の前で、ナディルが毛布を被って震えていた。手にした携帯食を、火で炙ろうとして、落としそうになっている。
「寒いですね、隊長」
「ああ」
「これ、火に近づけすぎると焦げるんですよね。前に一回、真っ黒にして、ハルに笑われました」
どうでもいい話だった。リーヴは、ふっと口元を緩めた。こういう、何でもない話をする時間が、この野営地にはまだ残っている。
「灰域の冬って、こんなに寒いんですね。管区にいた頃は、暖房があったから」
こいつも灰域で生まれた、リーヴと同じ孤児だ。ただ、回収されたのが幼かった分、灰域の記憶はリーヴほど鮮明ではないらしい。だから、この寒さにも、まだこんなふうに素直に文句を言える。
「隊長は、灰域の出だって聞きました。覚えてるんですか、ここのこと」
ナディルが、何気なく訊いてきた。悪気はない。リーヴは、火を見つめたまま答えた。
「少しな」
少し、どころではなかった。リーヴは、覚えている。焼け跡の、煤けた匂い。いつも空いていた腹。毛布もなく明かした夜。隣で寝ていた誰かが、朝には冷たくなっていたことも。
あの寒さを、二度と味わいたくなかった。だから強さを欲しがった。暖かい場所へ、安全な場所へ行きたかった。そのために差し出せるものは、全部、差し出した。体の感覚も、その一つだ。安いものだと、あの頃は思っていた。
「いい後輩を持ったな、俺は」
ふいに言うと、ナディルはきょとんとした顔をした。意味が伝わらなかったらしい。それでいい。この後輩には、まだ何も背負わせたくなかった。鋳脈を受けてまだ日が浅く、遊肢の精度も安定しない。その不安定さが、リーヴには少しだけ眩しかった。できるだけ長く、そのままでいてほしい。叶わないと知りながら、そう思った。
リーヴは何も言わず、火のそばを離れた。
灰域の空を見上げた。
灰色で、冷たくて、こちらに何も約束してくれない空だった。子供の頃に見上げた空と、何も変わっていない。
手袋を外して、左手を見る。
指先の血色が悪い。寒さのせいだけではないことを、リーヴは知っていた。試しに、親指と人差し指を擦り合わせてみる。本来なら、皮膚の摩擦を感じるはずだ。だが、伝わってくるのは、ぼんやりとした圧だけだった。まるで、厚い手袋を一枚多く着けているような。操縦桿を握っても、機体の細かな振動が、以前ほど鮮明には届かない。
半年前は、ここまでではなかった。来年の今頃は、どうなっているだろう。考えても仕方のないことだ。リーヴは手袋を嵌め直した。
それでも、遊肢は動く。まだ、戦える。今は、それでいい。今だけは。
* * *
夜が深まった。
リーヴは一人、暗いコックピットに残った。頭上に、四基の遊肢の懸架アームが折り畳まれている。リーヴの指の、延長。自分が欲しくて、手に入れた力。代償も承知のうえで、選んだものだ。
明日、ストーンクロスにはリオンがいる。報告では、そうなっている。
リオンとは、士官学校の同期だった。冴覚を持ちながら、リオンは鋳脈を拒み続けた。何度勧められても、首を縦に振らなかった。あの頃、リーヴはそれが理解できなかった。力が手に入るのに、なぜ受け取らない。代償を恐れているのか。それとも――自分のような人間を、内心で見下しているのか。
今でも、分からない。分からないまま、明日、敵として相まみえる。
穏やかな吐息とともに、ひとりごとが零れた。
「お前はなぜ鋳脈を拒む、リオン」
誰の鼓膜も、揺らさない。
「俺が受け入れたものを、お前は」
その先は、言葉にならなかった。羨ましいのか、許せないのか、それとも、ただ怖いのか。自分の中にあるものに、リーヴは未だに名前をつけられずにいた。同じ場所から来て、同じ力を持って、片方は体を差し出し、片方は拒んだ。その違いが、明日、どんな形で出るのか。
リーヴは目を閉じ、左手を握り込んだ。爪が肉に食い込む。その痛みすら、もう遠かった。




