セルヴィスの街路
その夜、リオンはどうしても眠れなかった。
リオンはストーンクロスの仮宿の窓辺に立って、外を見ていた。雪は止んでいる。雲の切れ間から、星が覗いていた。フォートレスでは街灯が夜を薄めていたから、こんなに星が見えることはなかった。
明日、ダリオ・メイスが来る。
顔も知らない相手だ。それでも、コルヴァスという名前の重さは、体が覚えている。リーヴが率いる、セルヴィスの尖兵。かつて自分が背を預けていた組織。その兵士に、明日、銃を向ける。
戦うことそのものは、怖くない。訓練でも実戦でも、リオンは何度も機体に乗ってきた。怖いのは、引き金を引く相手が、かつての自分と同じ顔をしていることだった。同じ教本で学び、同じ号令で動く、セルヴィスの人間。その誰かを撃つということが、どういうことなのか、リオンはまだ、うまく飲み込めていない。
眠ろうとするたび、まぶたの裏に古い景色が滲んだ。普段なら、無理にでも頭の隅へ押しやれる記憶だった。けれど明日、セルヴィスと戦うと決まった今夜だけは、それがどうしても消えてくれない。止めようとしても、止まらなかった。
* * *
士官学校からの帰り道。リオンはリーヴと並んで、管区の外縁を歩いていた。
その日は演習が長引いて、帰りはいつもと違う道を通った。普段なら使わない、外縁沿いの裏道。リオンにとっては、ほとんど初めて足を踏み入れる区画だった。
三重防壁の、いちばん外側の内壁沿い。そこに「保護民居住区」がある。灰域から「保護」された住民が暮らす区画だ。名前だけは知っていた。けれど、自分の目で見るのは、その時が初めてだった。中心区で育ったリオンには、同じ街の中にこんな場所があることすら、実感がなかった。
中心部とは、空気が違った。建物は二階建てで、塗装は剥げかけている。窓は小さく、洗濯物がロープに吊られて凍っていた。すれ違う人は皆、首から管区証を提げている。それがなければ、検問を通れない。
路地で、子供たちがボールを蹴っていた。足元はサンダルで、この寒さなのに、靴下を履いていない子もいる。一人が転んで、膝をすりむいて、それでも笑っていた。リオンは、その膝の赤いすり傷から、なぜか目が離せなかった。
あの傷に貼る絆創膏が、この区画にあるのだろうか。中心区なら、薬棚を開ければいくらでも出てくる。リオンの実家にもあった。けれど、ここでは。
ふと、子供と目が合った。リオンの軍服を見て、子供の顔から笑みが消えた。さっと立ち上がって、仲間を連れて、路地の奥へ走っていく。逃げたのだ。守られているはずの相手から、転がるように。リオンは、その小さな背中を見送ることしか、できなかった。
リーヴが、ぽつりと言った。
「あの人たちも守っているんだ。僕たちが」
穏やかな声だった。疑いの一つも混じっていない。リーヴはいつも、こういう声で正しいことを言う。
リオンは立ち止まった。
「守っている?」
居住区の入口に検問所がある。武装した兵士が二人、管区証をあらためていた。一人の老人が、申請の紙を握りしめて、何か言い合っている。中心区に出るには申請が要る。承認まで三日。三日あれば、急ぎの用事はたいてい手遅れになる。
「閉じ込めている、の間違いじゃない」
言ってから、口を押さえたくなった。軍の一員が、口にしていい言葉ではなかった。それでも、出てしまったものは戻らない。
リーヴは、何も言わなかった。ただ、その横顔が、ほんの少しだけ強張ったのを、リオンは見た気がした。気がしただけかもしれない。
あいつもまた、この壁の外から拾われてきた人間だ。だったら今の言葉を、どんな喉で言ったのか。訊けなかった。リオンの足が、先に歩き出していた。
二人は、黙って歩いた。
道の脇で、痩せた女が、配給の列に並んでいた。順番が来ても、受け取れる量は決まっているのだろう。列は、ほとんど進まなかった。
居住区の端に、小さな学校があった。窓から、子供たちの声がそろって聞こえてくる。何かを暗唱している。耳を澄ますと、それは管区法の条文だった。灰域から来た子供たちが、セルヴィスの法律を、声をそろえて覚えさせられていた。自分たちが何を許され、何を禁じられているか。それを、歌うように。
覚えのいい子だ、と通りすがりの大人が笑っていた。リオンは、笑えなかった。あの子たちは、自分を縛る縄の結び方を、自分の口で覚えているのだ。そう思うと、足が重くなった。
* * *
軋むベッドの縁に、リオンは腰を下ろした。
あの膝のすり傷が、まだ目の裏にある。あれから何年も経った。今はきっと、もっと多くの人間が、あの壁の内側に送られている。
もし、と思う。あの子供たちの中に、冴覚の素養を持つ子がいたら。リーヴが連れていかれた日のことを、リオンは覚えている。十四歳だった。それから半年もしないうちに、あいつは指先の熱が分からなくなった。茶を出しても、火傷しそうになるまで気づかない。「断れなかったのか」と一度だけ訊いたら、リーヴはただ笑った。断るという言葉が、最初から自分の辞書にないみたいな笑い方だった。
リオンが同じ目に遭わずに済んだのは、強かったからではない。参謀長アスフォードの娘という肩書きが、たまたま、盾になっただけだ。あの頃、リーヴがリオンに向けた目の中に、何があったのか。憧れか、嫉妬か、それとも、もっと冷たいものか。リオンは、今も正面から思い出せない。
あの居住区の子供たちには、その盾がない。リーヴにも、なかった。
手のひらの、固いタコを、無意識になぞっていた。
操縦桿を握り続けてできたタコだ。銃の構え方も、反動を殺す腕の使い方も、機体の慣性に逆らわない体の傾け方も、全部、セルヴィスの教練で叩き込まれた。この体は、指の先まで、セルヴィスでできている。そのセルヴィスに、明日、銃を向ける。自分の半分で、自分のもう半分を撃つような気がした。胃の底に、鉛を飲んだような重さがわだかまる。
間違っているのかもしれない。育ててくれた場所に弓を引くなんて。恩知らずだと、父なら言うだろうか。それとも、何も言わないだろうか。父の顔は、もう、うまく思い出せなかった。
それでも、あの逃げていった子供の背中だけは、消えてくれない。
眠るのは、諦めた。
リオンは外套を羽織り、仮宿を出た。冷えた夜気が、肺の奥まで刺さってくる。雪を踏んで、格納庫へ向かう。明日まで待てなかった。あの寄せ集めの残殻に、もう一度だけ触れておきたかった。手が機体を覚えていれば、計器読みの半歩遅れの分くらいは、埋まるかもしれない。少しでも生き延びる目が増えるなら、今は何でもしておきたかった。
格納庫の扉を引くと、冷えた鉄と油の匂いがした。昼間ガルドが削ったベアリングの、細かな鉄粉が、まだ床に残っている。灰色の機体が、暗がりの中でじっと待っていた。リオンは、その装甲にそっと手を当てた。冷たい。指の腹に、溶接で塞いだ傷跡の凹凸が伝わってくる。何度も壊れて、何度も継ぎ接ぎされてきた機体だ。
この機体も、寄せ集めで、傷だらけで、それでもまだ動こうとしている。それが、なんだか、今の自分と少しだけ似ている気がした。
リオンは、しばらくそこに立っていた。明日、何が起きるかは、分からない。ただ、逃げないことだけは決めた。それで、今は十分だった。
夜は、まだ長かった。




