指令
リーヴ・シェイドは、味のしないコーヒーを飲んでいた。
野営地のテントの中。折り畳み式のテーブルに地図が広がり、その上にマグカップが置かれている。湯気が細く立ち上る。鼻に届く匂いは分かる。だが舌に載せても、苦味も酸味も感じない。ただ温かい液体が喉を通るだけだ。
味覚を失って2年になる。
テントの入口が開き、フィンが入ってきた。
「隊長。ダリオさんの追撃隊が後退したそうです」
フィンの声には苛立ちが混じっていた。カイ・セヴァルにラストヘイムで敗れた悔しさが、まだ燻っている。リーヴはマグカップを置いた。
「報告を」
「ダリオさんの隊は遊肢2基で制圧を試みましたが、ケストレルに近接距離まで詰められて撤退。損傷は軽微ですが、部隊の消耗を考慮して後退を判断したとのことです」
ダリオが退いた。
あの堅実な男が。遊肢で左右の退路を断ち、母機で正面から押す。教本通りの、だがそれ故に隙のない戦い方をするダリオが、撤退した。
カイ・セヴァルは成長している。
リーヴは地図の上のストーンクロスの位置を指で押さえた。
「フィン。お前はカイ・セヴァルと戦いたいか」
フィンは一瞬黙り、それから頷いた。
「負けたままは嫌です。次は負けない」
「負けないのと勝つのは違う」
リーヴは静かに言った。フィンの拳が握られるのが見えた。リーヴはそれ以上何も言わなかった。
テントの外で、ナディルが歩哨に立っている。リーヴはテントの隙間からナディルの後ろ姿を見た。灰色のコートの背中。リーヴと同じ灰域出身の少年。
通信機が鳴った。
ケネス・アスフォードからの公式回線だった。リーヴは通信を受けた。
「リーヴ隊長。灰域浄化計画を前倒しにする」
ケネスの声は穏やかだった。だがその穏やかさの裏に、鉄の意志がある。
「リオン・アスフォードの独断行動が灰域の抵抗勢力を煽っている。先鋒としてストーンクロスを制圧せよ。期限は10日以内」
リーヴは答えた。
「了解しました」
通信が切れた。
フィンがリーヴの顔を窺っている。
「リオンも向こうにいるんでしょう。リオンに会ったら、どうします」
リーヴは少し間を置いた。
「命令に従う」
言葉は短かった。
だがその裏で、リーヴは考えていた。
リオンが灰域にいる。鋳脈を拒み、セルヴィスを離れ、灰域の側に立った。リーヴにとって、それは自分の選択を否定されることに近い。
俺が受け入れた鋳脈を、お前は拒んだ。
俺が忠誠を誓った組織を、お前は捨てた。
お前が正しいなら、俺は何だ。
リーヴは左手を見た。指先が白い。冬の寒さのせいだけではない。触覚が薄れている。左手の小指は、もう温度を感じない。薬指も、少しずつ鈍くなっている。操縦桿を握る感触が、年々遠くなる。
14歳で鋳脈を受けた。
あの日、リーヴは自分に誓った。もう二度と、何も失わない。強くなる。誰よりも強くなる。灰域で両親を失った4歳の子供が、二度と何も失わないために。
鋳脈はその約束を守ってくれた。遊肢4基を操り、コルヴァスの隊長になった。セルヴィス最強の操手と呼ばれた。
代わりに、味覚を失った。左手の感覚が消え始めた。
それでも。
それでも、弱いままよりはましだ。
リーヴはテントの外に出た。夜の灰域。空は曇っていて、星は見えない。冬の空気が頬を刺す。ナディルが振り返った。
「隊長。何か」
「遊肢の起動テストをする」
銘殻のコックピットに乗り込んだ。ハッチが閉まる。計器が点灯する。鋳脈のリレー素子が後頭部で微かに発熱する。機体のセンサーが起動し、世界が拡張される。装甲の外側の気温。風向き。地面の硬さ。全てがリーヴの体感覚として流れ込んでくる。
遊肢起動。
肩部のハードポイントから、4基の遊肢が射出された。推進ノズルが青白い光を放ち、夜空に4つの影が舞い上がる。リーヴの感覚が4つに分岐する。1番遊肢の位置。2番遊肢の姿勢。3番遊肢のセンサーが捉える地表の情報。4番遊肢の推進剤残量。
10本の指の延長。それが、リーヴの遊肢だった。
4基の遊肢が銘殻の周囲を旋回する。夜空に円を描き、風を切る音が響く。
「俺の答えは、これだ」
力。
リーヴ・シェイドの答えは、常に力だった。




